漫画家のくらたま(倉田真由美)と私は、何ヶ月かに一度くらいの割合で、近況報告を兼ねた食事会をしている。が、このところ、二人ともすっかり波風のない平穏な日々になってしまって、報告するようなことが何ひとつない。「何か面白いことないかねぇ」というのが我々の口癖だ。
私やくらたまのような人間は退屈に耐えられない。平穏無事なのは喜ばしいことだと思うのだが、どうしても刺激を求めずにいられないのだ。まぁ、そんな性格だから、私なんぞは依存症になってしまうわけだが、あの当時に戻りたいとは思わないものの、何事もない日々を漫然と送っていると「あの頃は楽しかったなぁ」などと思ってしまう。苦しかったけど、楽しかった。人生が常にハラハラドキドキの連続で、眩しい光と真っ暗な闇を目まぐるしく往復していた。今は穏やかな夕暮れの中で暮らしているような気持ちである。
そんなわけで、私とくらたまは常に「面白いこと」「楽しいこと」を探して生きてきたわけだが、その嗜好のせいであまりにも波乱万丈な人生を歩んできたため、今やちょっとやそっとじゃ「楽しい」と感じないある種の「不感症」になってしまった感がある。
快楽は、すぐに鈍麻する。だからこそ私の依存症はより強い快楽を求めてエスカレートしていったわけだが、依存症ですらなくなった今となっては、もはや人生はただの惰性でしかない。くらたまは私より若いし体力もあるから、この先に何か強烈な体験が待っていないとも限らないが、私なんか身体も不自由で出歩けないし年取って体力も衰える一方だし、どんなに求めても刺激なんか向こうからやってくるわけがない。ああ、こんな穏やかな毎日を楽しめる人間だったらよかったなぁ。うちの夫みたいにさ。
と、このようなことをくらたまと話しながらふと気づいたのだが、私やくらたまのように「快」を求めて常にアンテナを伸ばしている人間とは逆に、世の中には常に「不快」を探して生きている人もいるよね。ツィッターとか見てるとしみじみ思うんだけど、たとえばわざわざ差別的な発言をしている人のツイートを見に行って激怒してる人たちとか、もはや好きでやっているとしか思えない。
よくよく考えると、これはじつに不思議な現象ではないか。人間をはじめとする生き物が「快」を求めて行動するのは筋が通っている。だからこそ我々の脳には「報酬系(リワードシステム)」という回路があるわけで、ネズミは餌を求めて迷路を覚え、犬はご褒美が欲しくて芸をするのだ。しかし彼らは「不快」の種を求めて探し回るような行動はとらない。そんなことをするのは人間だけじゃないかと思う。
もしかして、ある種の人々にとって「怒り」は「娯楽」なのかもしれない。私は短気で怒りっぽい性格だから日常生活でしょっちゅう怒っているが、私にとって激怒体験はちっとも楽しくないので、できれば避けて通りたい。わざわざ自分を怒らせそうな場所に行きたいとか、そういう人を探したいとは思わないのである。
が、ツイッターで暴言(本人にとっては暴言の自覚もないのだろうが)吐いてる人の発言をわざわざ見に行ってリツイートして怒っているような人々にとって、怒りはある種の娯楽なのだろう。芸能人のブログが炎上したりするのも、彼ら彼女らの発言に「怒る」ことが皆の快楽だからだとしか思えない。では何故、怒りが娯楽になり得るのか? たぶん、そこに「正義の快楽」があるからだ、と私は思う。要するに、それは本人にとって、ただの怒りではなく「義憤」なのだ。自分は直接の被害者でもないのに「正義の立場」から悪者に怒り、天誅を下すべく炎上現場に馳せ参じるわけである。他人の不倫を叩くマスコミなんかも、浮気問題なんか夫婦間で解決すればいいじゃんと私は思うのだが、あたかも「社会正義」の代表みたいな顔をして嬉しそうに糾弾する。そこには明らかに「正義の快感」に酔って悦に入るドヤ顔が透けて見えるではないか。ああ、浅ましいこと。みんな「正義」が大好きなんだねぇ。「正義」なんて、本当はどこにもありはしないのに。