女王様のご生還 VOL.53 中村うさぎ

父と母と私は、60年間、「家族」をやってきた。

その間、約35年くらい、父は仕事で家にいないことが多かったが、たまにいても私の折り合いが大変悪くて、私にとっては「いるとウザい存在」であった。彼は明らかに家庭よりも社会にアイデンティティを置いていたし、私もそのことに何の異存もなかった。なまじ家庭人なんか目指されたら、それだけ父の在宅が増えて迷惑だ。



また私にしても、幼い頃こそ家が自分の全世界であったものの、学校に行き始めて以降は外のコミュニティでアイデンティティを確認することの方が重要になってきて、そのうち社会人になって家を出てからは、私にとってそこは用事のある時にしか帰らない「実家」と呼ばれる「世界の片隅の場所」になった。



だが、母にとっては、そこは唯一の自分の居場所であり、家族の存在がアイデンティティの大半を占めていたように思う。

母はさぞかし孤独だったろう、と、今にして思う。

「妻であり、母であり、主婦である」というのが彼女の唯一のアイデンティティだったのに、夫とひとり娘はその「家庭」をほとんど視野の外に置いて生きており、彼女ほど大切に思っていなかったのだ。

彼女はいつも「守るべき家」にぽつんとひとりで置き去りにされていた。



だが、その母が認知症になって、まるで復讐のように夫や娘を忘れていく。

今までさんざん彼女をないがしろにしながらも、心のどこかで彼女の存在を空気のように「いて当たり前」と認識していた私たちは、この期に及んで慌てふためき、よそよそしい顔で「あなた誰?」と訊かれて傷つくのだった。

愚かである。どうしてもっと大事にしてあげなかったんだろう?

どうしてどうして、彼女の孤独に気づいてあげられなかったんだろう?

もう遅いのか? もう一度、母と「家族」としてやり直すことはできないのか?



父と私は、母に忘れられて初めて、我々が「家族」であったことを思い出した。

「家族」は、結婚して子どもができたら当たり前のように出来上がるものではない。

ひとりひとりの自覚と努力によって作られるものなのだ。

そして我が家の場合、その中心人物は母であった。

家父長制度を疑いもなく受け容れ、昭和世代の働きマンとして仕事に生き続けた父は、確かに我が家を経済的に支え、その頂点に立つ存在であった。

が、「家族」は経済で結び付いているコミュニティではない。

彼は確かに家族の頂点にいたかもしれないが、家族の中心ではなかった。

中心は母だったのだ。



父がいなくても、母と私で家族はやっていけただろう。

ものすごく貧しくなるだろうが、それでも家族だ。

だが、母がいなかったら、父と私は家族でいられたか?

それでなくても仲が悪く、互いの自己主張を譲らない我々は、とっくに離散してそれぞれ勝手に生きることになっていたに違いない。



我々は今、60年間で初めて「家族」喪失の危機に瀕している。

母が私たちと家族であることを手放したら、このまま私たちの家族は解体する。

それは、父と私が長らく「家族」を軽んじ放置してきた報いなのである。

母の認知症は、父と私に「家族とは何か」という問題を突き付けた。

それでも私は結婚して現在の夫と「家族」を作っているが、父の「家族」は母しかいない。

私よりも彼の方が、「家族」喪失の痛みを痛切に実感しているだろう。

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