女王様のご生還 VOL.230 中村うさぎ

シュールレアリズムの画家の中ではキリコとポール・デルヴォーが好きだ。

キリコの絵を初めて見たのは小学校の2年生か3年生くらいの頃だったと思う。

私に教養をつけようと(笑)母親が購入した百科事典に、「世界の名画」という分厚い画集が付いていて、そこにキリコの絵があった。

何かわからないが、ものすごく強烈に心を動かされたのを覚えている。

たぶん「変な絵」だったからだろうが、他にもピカソやらダリやらの「変な絵」もあったのに、キリコが心に刺さったのだ。

後にキリコの他の絵も見て、よりいっそう魅せられた。

広場にぽつんと立った彫像か何かの影が黒々と伸びて、私の中に侵入して来そうな不穏な気配を感じた。



ポール・デルヴォーとの出会いは、何かの文庫本の表紙だ。

何の本だったか忘れたが、内容はミステリーかホラーの小説だったと思う。

小説の中身よりも表紙のデルヴォーの絵に引き寄せられ、何か怖い夢の中に迷い込んだような気分になった。

目を大きく見開いた女たちがずらりと並んでいる絵だ。

物音ひとつしない静謐な絵だが、見つめていると心がざわついて来て、聞こえないはずの叫び声が脳内に響き渡る。



キリコとデルヴォーが表現していたのは、私にとって非常に馴染みのある感情……「形のない不安」だ。

子供の頃から、ひとりで部屋にいると居ても立ってもいられないような奇妙な不安に襲われた。

明日のテストが不安だとか、そういう明確な不安ではない。

心配の種など何もないのにぞわぞわして、「どうしよう、どうしよう」と呟きながら部屋の中を歩き回る。

何が「どうしよう」なのか、自分でもわからない。

ただただ「違う、違う」と何かが私に言っているのだ。

そういえば、今思い出したが、ボケた母も部屋を徘徊しながら「違う、違う」としきりに言っていたな。

もしかして、あの時の母の不安と子供時代の私の不安は同質のものであったかもしれない。



おそらく誰もが多かれ少なかれ、このような「形のない不安」を抱えて生きているのだと思う。

世界への違和感か自分への違和感か、何かわからないけどとにかく「違う!」という確かな否定の感覚だ。

そのせいで私はしばしば、自分が誰か他人の夢の中にいるのではないかという「胡蝶の夢」的な疑念を持ってしまう。

これは小学生の頃からだ。

何か間違った場所にいるような気がして仕方ないのだ。

そんな時にキリコやデルヴォーの絵を見ると、「ああ、この人たちもだ」と勝手に親近感を抱く。

彼らの絵に充満している「非現実感」は、この世界の異質さそのものだと感じるからだ。



ラノベや漫画を原作としたアニメに「転生もの」が多いのは、こうした「ここ(現実世界)は私の居場所ではない」という感覚を若い世代も抱えているからかもしれない。

おそらくこれは世代を超えた普遍的な違和感なのだろう。

ただ、彼らが転生して見つける居場所はあまりにも安易だ。

私はあのような夢は見なかった。

違和感があるのは、世界がおかしいからではなく自分がおかしいからだろうと感じていたからだ。

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