女王様のご生還 VOL.142 中村うさぎ

「トロッコ問題」という倫理学の問いがある。



故障でブレーキが効かなくなって暴走しているトロッコがある。

あなたはその行く手の線路脇でトロッコのレールを切り替える装置のそばに立っている。

このままトロッコが暴走すると、右のレールの先で何も知らずに線路の工事をしている5人の男たちに突っ込んでしまう。

左のレールの先にはひとりだけ、これまた何も知らずに線路に立っている男がいる。

トロッコのレールを切り替えられるのはあなただけだ。

さて、あなたは5人の男とひとりの男、どちらを犠牲にするか?



と、まぁ、こういう問いである。

多くの人は5人の命を救うために泣く泣くひとりを犠牲にする、という判断を下す。

ひとりひとりの命の重さが同等であるなら、より多くの命を救う方が正しいと感じるからだ。



しかし、この問いにはさらに様々な条件が加わる。

もし右のレールの先にいる5人がレイプや殺人を重ねてきた凶悪な犯罪者たちで、左のレールの男が罪のない善良な市民だったら?

あるいは、もし右のレールにいる5人が会ったこともない見知らぬ人間で、左のレールにいるのがあなたの大切な家族や友人だったら?

もし右のレールにいる5人が社会的に何の貢献もしない麻薬中毒者や落伍者で、左にいるひとりが人類にとって重要な発明や発見をする天才科学者だったら?



我々は「すべての人間の命の重さは平等である」と教えられる。

他人よりも特別に尊い命なんてないし、他人よりも特別に価値の低い命なんてない。

「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」というやつだ。

だが、この「トロッコ問題」を突きつけられると、じつは人の命を格付けしている自分に気づくのである。

5人のレイプ魔や殺人者を生かすくらいなら、ひとりの善良な人間を生かしたい。

5人の役立たずを救うより、唯一無二の天才を救った方が社会にとって有益だ。

しかし、言うまでもなく、この考え方は危険である。

人の命の価値を我々が決めていいことになれば、ナチスの大量虐殺も正当化されるからだ。

彼らは「人種的に劣等」とみなしたユダヤ人だけでなく、「社会的に無益」とみなした同性愛者や障碍者たちも収容所に送っていた。

今考えると非人道的に思えるが、その当時のドイツではこれがマジョリティの価値観だったのだ。 

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