2017年7月9日に写真集食堂めぐたまにて開催された「飯沢耕太郎と写真集を語り尽くす」。連続講座「飯沢耕太郎と写真集を読む」の特別版として写真家をお招きしてご本人に自分の写真集について語り尽くしていただきます。
今回は、ゲストに写真家の百々俊二さんと、百々さんの長男で写真家の百々新(あらた)さんをお迎えしました。2時間にわたるトークイベントの内容をたっぷりご紹介いたします。
【目次】
◆『遙かなる地平 1968-1977』(2012年)
◆『新世界むかしも今も』(1986年)
◆『楽土・紀伊半島』(1995年)、『千年楽土』(1999年)
◆『大阪』(2010年)
◆『日本海』(2014年)
◆百々新『上海の流儀』(1999年)
◆百々新『対岸』(2012年)
◆これから
記事は有料版となっておりますが、冒頭のみ無料でお読みいただけます。
イベントのあとは百々俊二さん、新さんを囲み「大阪なご飯の会」を開きました。そのようすは、写真集食堂めぐたまのサイトでレポートしていますので、こちらも合わせてご覧ください。
「飯沢耕太郎と写真集を読む」はほぼ毎月、写真集食堂めぐたまで開催されています。(これまでの講座の様子はこちら)
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(2017年7月9日開催・写真/文 館野 帆乃花)
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飯沢: ここ、写真集食堂めぐたまでは、毎回テーマを変えて一月に一度くらいのペースで写真集に関するイベントを開催しています。今日はゲストに写真家の百々俊二さんをお迎えします。百々さんは写真家一家でして、二人の息子、新さんと武さんも写真家です。今日は長男の新さんにもお越しいただきました。百々さんは今、浜松町にあるGallery916で、展覧会やっておりまして、今回の展示は、写真家としての50年間の軌跡をたどることができる大展覧会です。(2017年9月10日まで)
百々俊二: 展覧会には学生時代から今までの写真を出していて、点数でいうと340点くらい出しています。
飯沢: 今日は「写真集を語り尽くす」というイベントなので、写真集のなかから代表作を取り上げて、百々さんの写真家人生をたどっていこうと思います。
百々俊二という写真家の特徴のひとつは、カメラの変遷、使うカメラの幅の広さ。今日は6冊の写真集を取り上げていこうと思いますが、初期作品がまとまった『遙かなる地平 1968-1977』(2012年)はほとんど35mmカメラ、1986年にはじめて発表した写真集『新世界むかしも今も』は35mmと6×6(ロクロク)のフィルムの両方を使っています。『新世界むかしも今も』には4×5(シノゴ)の大判カメラを使っている写真もありまして、のちの『楽土・紀伊半島』(1995年)、『千年楽土』(1999年)、『大阪』(2010年)、『日本海』(2014年)などは8×10(エイトバイテン)の大判カメラです。また、モノクロ写真とカラー写真という違いもありまして、百々さんはカメラという目をたくさん持っていて幅が広い。息子の新さんもデビュー作の『上海の流儀』(1999年)はモノクロですが、2013年に木村伊兵衛賞をとった『対岸』(2012年)はカラーで撮っています。新さんの2つの写真集についてもお話を伺っていきたいですね。写真集をじっくり見ながら、カメラの違い、モノクロとカラーの違いなど聞いていきたいと思います。
◆『遙かなる地平 1968-1977』(2012年)
飯沢: Gallery916の展覧会のプロローグにある、学生時代のプリントが印象的でした。スケッチブックに写真が貼付けてあって、スケッチブックもテープも色褪せているのですが、それが生々しくて。この頃に撮った写真はずいぶん後になって、『遙かなる地平 1968-1977』(2012年)という写真集にまとめられています。まずは、百々さんの学生時代から写真家として本格的に歩みだす頃までのお話を聞いていきたいと思います。
百々俊二: 僕は生まれも育ちも大阪ですが、大学は博多にある九州産業大学の芸術学部写真学科を出ました。写真学科の一期生で、当時の先生方は新聞社の写真部長をされていて、定年退職後に先生になったような方が多かったので、美術的なこと、写真の話ができる人がいなかったんです。そこに、日本大学芸術学部の写真学科を出た黒沼康一さんが、東京からやってきて産大の助手になり、やっと写真の話のできる相手ができた。歳も3つくらいしか違わなかったので、話しやすい先輩みたいな存在でしたね。
飯沢: 彼は理論家で、PROVOKE(プロヴォーク)の分析や、写真評論などもできる方だった。
百々俊二: プロヴォークについては、黒沼さんにすごく教えてもらいました。僕が大学に入って最初に見たのが、川田喜久治さんの『地図』。本当に衝撃を受けて、誰かと話がしたかったのに、周りに話ができる人がいなかった。黒沼さんが来てからは、そういう話をたくさんして。
飯沢: 『地図』は1965年に刊行された、川田さんの代表作です。全ページ観音開きの伝説的な写真集。学校にあったのですね。
百々俊二: とはいえ、この頃の九州は写真に関する情報が全く入ってこない離島。『カメラ毎日』と『アサヒカメラ』と『日本カメラ』、ここらへんのカメラ雑誌が唯一の情報源だった。そんな環境だったから、発信の仕方もわからない。どうやって九州から発信していけばいいのかを考えて、黒沼さんや仲間と一緒にお金を出しあって、1971年に『地平』という同人誌をはじめたんです。
飯沢: 『地平』は志の高い写真雑誌です。何冊出したのですか?
百々俊二: 1971年から始めて、1977年の10号で終わりました。月刊と言いながら月刊でやったのは最初の2カ月だけ(笑)。
飯沢: 不定期月刊ってやつだね(笑)。途中から百々さんは大阪に移られていますよね?
百々俊二: 2号まで博多で作って、3号の時にはもう大阪にいました。1970年の大学卒業と同時に東京写真専門学校・九州校(現・九州ビジュアルアーツ)が立ち上げられて、そこの教員になったんです。そこに2年間いて、結婚をして24歳で大阪校に移りました。黒沼さんも僕の紹介で大阪校に来て、それでなんとか10号まで出しました。当時は、写真集を出すとか写真展をやるという発想がなかった。
飯沢: 撮ることにエネルギーのすべてを集中していたということですかね。『遙かなる地平』にはそんな学生時代や『地平』に取り組んでいたころの写真がまとまっています。最初に出てくるのが、佐世保の原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争の写真。これが百々さんの最初の写真ですか?
百々俊二: そうです。これは1968年なので、20歳の時です。この頃は黒沼さんが来る前だったし、どんな写真がいいのかなんて全く意識もしていなくて。ただ、原子力航空母艦のエンタープライズが来ると聞いて、佐世保には絶対行かなきゃと思って、友達に借りてかき集めた30本のフィルムを持って佐世保に行きました。撮りきったら帰ろうと思って、東京から来た学生たちと一緒に野宿して。5日間くらい居たのかな。フィルムは4日目につきてしまって、あとは街を歩いているだけで、ものすごく悔しい思いもしましたね。この時は、とにかく阻止闘争の前線に行こうと思って、迎え撃つジュラルミンの盾に向かっていった。
飯沢: 時代の背景を考えてみると、あちこちでデモや集会があって、という時代ですよね。
百々俊二: 1969年の東大闘争にも行きました。テレビをみていると東大の安田講堂のようすが出てきて、行きたくてうずうずしてくるわけですよ。でも、本当に金がなかったから、大阪にいるおふくろに公衆電話から電話をして、「今から博多から出る電車に乗るから、金持って大阪駅で待ってて」って。それだけ言って、10円玉が切れてガシャン。
飯沢: お母さんは来た?
百々俊二: いまだに覚えているけど、冬ですよ。大阪経由で東京に行く列車で、大阪で10分くらい止まるから、その間にホームで探していると、おふくろと親父がホームにぽつんと立っていてね。それで金もらって、そのまま発車する列車に乗って。
飯沢: おふくろさんも親父さんも百々さんが写真をやることに対して反対はしなかった?
百々俊二: なかったですね。とにかく利かん坊でめちゃくちゃな奴だったから、何かやってくれたらそれでいいという感じでした。卒業制作の時は、とにかく当時の学生運動、東京と京都、九州の学生運動を撮る、それから日本中の米軍基地をまわるっていうのを卒業制作と決めて。
飯沢: これまたでっかいテーマだ。それで米軍基地のある沖縄や岩国の基地を撮っているんですね。『遙かなる地平』のなかで、ロンドンだけ異色だと思うのですが、なぜロンドンなのかを聞かせてください。私は前に聞いたことがあって、聞けば聞くほど「本当?」って感じの面白い話なんですよ。
百々俊二: 卒業してすぐの春休みに実家に帰っていたら、弟が勝手に大阪のクイズ番組に応募していたんです。俺の名前で。二択のクイズで、10問連続正解するとロンドン・ローマ10日間の旅。
飯沢: 二択とはいえ、10問連続って難しいよね。クイズは得意だったの?
百々俊二: 全然。行けたのは奇跡。その番組は5年くらい続いたんだけど、賞品は終わる時までもらえないことになっていて。でも、僕が出たのがあと1、2回で番組が終わるタイミングだったから、すぐその年にロンドンに行けたんです。10万円の副賞もくれて。当時の初任給が1万円ちょっとですよ。それで10万だから相当な金額ですよね。ロンドンまでの飛行機代も23万円くらいしましたから。御の字です(笑)。
飯沢: ロンドンの写真はいろんなことを試していて、アレ・ブレ・ボケとかソラリゼーションとかやりたい放題ですよね。
百々俊二: フィルム現像に失敗したからなんですけどね。フィルムを3本いっぺんに現像できるタンクがあって、それを使って、なおかつフィルムを背中合わせにするといっぺんに6本できるんですよ。でも下手するとフィルムとフィルムがひっついて未現像になる。ひっついているのをはがして現像し直すと、変な模様がついちゃうの。それをプリントしてみたらソラリゼーションみたいになっていて。
飯沢: この頃の百々さんの写真は、意欲がまず前に立っていて、写真はあとから行動にくっついてくるという感じがします。言ってみれば、何を被写体にするかっていうのは全身感覚じゃないけど、皮膚感覚みたいなもので、頭とか目をひっくるめた自分の存在全身をアンテナにして動いていた時代の写真のあり方というふうに見えますね。だから面白い。そういう動物的な勘と全身感覚で撮られた写真が『遙かなる地平』に集まっているように思います。
◆『新世界むかしも今も』(1986年)
飯沢: そして、一番最初に発表した写真集が、『新世界むかしも今も』(1986年)です。これは大阪の街のディープなところをスナップした写真集。生まれが大阪で、大阪育ちということで、街にたいするスタンスが、ここまでの写真とは違うと思うんです。やっぱり新世界は写真集を作ることが頭のなかにあって、練り上げてきた形。新世界っていうのは百々さんの写真家としての一つの区切りのように思います。
百々俊二: 新世界は学生の時から撮っていました。1970年の大阪万博があった時は万博反対闘争っていうのがあって、太陽の塔に立てこもった人もいたりして。僕もあの頃は万博なんか行かないぞって思って、新世界にばっかり行っていた。ここがニューワールドだって(笑)。『新世界むかしも今も』では、1976年から撮った写真をまとめています。最初の2年間はカラーフィルムで4×5の大判カメラで撮って、それから4年間は35mmカメラでスナップを。
飯沢: 6×6の中判カメラもありますよね。この頃から35mm以外にも中判、大判カメラも使うようになっていますが、きっかけは?
百々俊二: 1975年の『アサヒカメラ』の連載で、高梨豊さんが<町>というシリーズで4×5の中判カメラを使って東京の街をカラーで撮っているのを見て、ショックを受けて。それで、4×5のカメラに三脚を付けて新世界に行くようになりました。大判カメラを使うようになって、スナップでも、隅々まで見る癖がついた。ぽんっと見てカシャ、じゃなくて、一呼吸おいて撮るっていう感じ。
百々新: 親父の一番初期のやつを見ていて、スナップの質が違うなって。学生の頃はある種デザイン的というか、造形的に撮っているけど、新世界から対象との距離感が違う。のちの大判カメラで撮った写真にも言えるんだけど、対象、人のなかへにじり寄っていくやり方が新世界の時に出てきていて、入り込んで撮っている。
飯沢: 隅々が表に出てくるような感じですね。被写体との関係が濃い、濃密な写真集で、街と自分との間の距離が近い。それぞれの写真にバックグラウンドやストーリーがあるわけでしょ。
百々俊二: 新世界にいる時は、いつも人と話をして撮らせてもらう。撮らせてもらったら、キャビネくらいの大きさにプリントしておいて、カバンに入れとくわけ。この間撮ったおっちゃんに、いつどこで会うかわからない。だから会ったら「この前撮らしてもろうたやん」って言って写真をあげるの。そうすると「お前、いいやっちゃな」とかいって酒をおごってくれたりね。例えばこの写真。こちらの女性はミス・ジャンボっていう娼婦なんです。「撮らせて」って言ったら、「いいよ」って言ってくれて、場所と光を選んで撮って、また会った時にプリントをあげた。そうしたら、すごく喜んで「いいように撮ってくれているね、タダにしとくから行こう」って(笑)。
飯沢: そこでついて行くと面白いんだけどな(笑)。
百々俊二: 僕もナイーブだったんだよ。よく考えたら絶対行っておくべきだったな。その部屋でミス・ジャンボのヌード写真を撮れば良かった。
飯沢: 深瀬昌久さんの『鴉』に出てくるような。
百々新: そしたら違う写真集になっていたかもね。