先日、斉藤章佳さんとの対談の時に、斉藤さんが熊谷晋一郎さんの言葉を教えてくれた。
熊谷晋一郎さんは脳性マヒで車椅子生活をしている障碍者のお医者さんで、私もお会いしてお話をしたことがある。
その熊谷さんが、「自立は依存先を増やすこと。希望は絶望を分かち合うこと」とおっしゃったそうだ。さすが、である。なんかもう、ものすごく胸にすとんと落ちた。
私はずっと、自立とは人に頼らないことだと思っていた。経済的なことも人生の選択も何もかも夫に任せて生きている母を見ていて、思春期から強く「私は自立したい!」と望んだ私は、大人になって経済的な自立を果たしたものの、「依存症」という奇妙な病を抱えることとなってしまった。せっかく自立して(ついでに離婚もして)誰からも支配されない自由を手にしたと思ったのに、シャネルにすべてを牛耳られる日々(笑)……何なんだよ、これっ!
だが、その時もまだ私は気づいてなかったのだ。自立の対義語が依存ではない、ということに。そして、依存症が治まった頃にも私はとにかく「人に頼らない」を目指して頑張り、誰にも弱みは見せたくなかったし、弱音を吐くのも嫌って、なんだか知らないけどひとりで戦い続けてきた。
しかし、そこで突然、またしても奇妙な病気に罹り、今度は足が不自由になってしまった。一時期は車椅子生活で、自立どころかひとりでトイレにも行けない毎日を送る羽目になり、もうめちゃくちゃ落ち込んだ。この私が! 誰よりも人に頼ることを嫌ってきた私が! 誰かに手を借りなくては生きていけない身体になるなんて! こんな皮肉ってある? 何の罰ゲームなのよ、これ?
だけど、斉藤さんから熊谷晋一郎さんの言葉を伝え聞いて、ハッとしたのだ。
そうか! 私は間違ってた! 自立の対義語は依存ではなかったのだ!と。
人間は、さまざまなものに依存する。家族や友人や恋人という他者に、宗教や思想に、あるいは恋愛やセックスといった行為に。おそらく我々は、何かに依存しなければ生きていけない生き物なのである。
だがその一方で、我々はひとりで生きていかなくてはならない生き物でもある。社会という群れの中で互いに寄り添いながらも、ひとりひとりは自立した個体であり続けること。これが理想的な人間の在り方だと私は思う。
この「依存する生き物」であることと「自立すべき生き物」であることの矛盾をどう解決するのか……これが私にとって長年の疑問であった。
「自立」を目指した果てに「孤立」が待っていることはよくある。自立と孤立は違うはずなのに、こんなはずじゃなかったのに、と臍を噛む。「孤立ではない自立」をどう実現すればいいのか? そういうことをエッセイで書いたこともあったが、結局、答は見つからなかった。