女王様のご生還 VOL.268 中村うさぎ

ネズミは迷路の夢を見る、らしい。

脳学者の先生から聞いた話だ。

毎日迷路を走ってる実験用のネズミは、眠るとその日に走った迷路を夢の中で追体験するそうである。

そうやって迷路攻略の記憶を脳に焼き付け、認知能力を高めていくのだ。

おそらく犬や猫も、その日の体験を夢の中で再現するのだろう。

散歩したりオモチャで遊んだりした記憶だ。

うちの猫も時々、眠ってる間に鳴いたり脚をぴくぴく動かしたりしてる。

そんな姿を見ると「ああ、生き物ってこうやって学習してるんだな」と、微笑ましい。



一方、人間の夢はどうだろう?

確かに我々の夢には、その日の体験が影響していることもある。

たとえば私などは映画を観ながら寝落ちすると、高確率でその映画の続きを夢で見たりする。

だが、その場合、登場人物や背景は必ずしも映画に忠実ではない。

映画とは関係のない友人知人が登場したり、アメリカが舞台だったはずなのにいつの間にか日本の、それも昔住んでた家にいたりする。

そしてストーリーもどんどん脱線して、最終的には映画の面影などひとかけらもないオリジナルストーリーに変貌してしまうのだ。

「まぁ、夢ってそんなもんじゃん」と言ってしまえば終わりだが、これってたぶん人間ならではの現象なんじゃないかと思う。

ネズミや犬や猫は、夢の中でオリジナルストーリーなんか作らない気がする。

彼らの夢は、その日の体験をほぼ忠実に再現するだけなんじゃないだろうか。

何故なら、彼らと人間の大きな違いは「物語を必要とするか否か」であると考えられるからだ。



人間は己の体験や感情を忠実に記憶するのではなく、いったん「物語化」せずにはいられない生き物だ。

だから同じ体験をしても、それぞれの記憶には微妙な(場合によっては大幅な)差異がある。

ひとりひとりがその体験に独自の解釈を加え、細かい出来事を勝手に取捨選択した結果、主観によって歪められたオリジナルの物語が記憶として定着するからだ。

おそらくネズミは迷路に何のストーリーも求めないだろうから、その夢も現実から遠く離れはしないだろう。

彼らにとって「夢」は体験の定着であり学習の一作業だ。

でも人間の「夢」は体験の抽象化であり、独自の物語に書き換える創造の作業なのだと私は思う。

「発見」や「応用」は他の動物にもできるが、「創造」は人間だけの特技である。

固いクルミの殻を石にぶつければ割れることを発見した鳥は、その発見を応用してクルミを石にぶつけて割ろうとするようになる。

都会で暮らすカラスにいたっては、わざと木の実を道路に置いて車に轢かせ、悠然と中身をついばむらしい。

が、鳥がやるのはそこまでだ。

やつらは決して「クルミ割り人形」を作ろうなどとは考えない。

一方、人間は鳥と同じ発見と応用からクルミを割る道具を発明し、さらにそれを人形の姿にしようとする奇妙な創造性まで発揮するわけだ。

べつにクルミさえ首尾よく割れればそれで事足りるのであって、わざわざ人形になぞらえる必要などどこにもない。

もはやそれは利便性や合理性の問題を超えて、「道具の擬人化」という抽象的な作業なのだ。

なんで人間は、わざわざそんな事をしたがるのだろう?

それは、単なる道具に「物語性」を持たせるためだ。

でも、どういうわけか、ペンチやドライバーを擬人化した商品は見かけない。

ペンチが恐竜の顔をしてたら楽しいのにね。

記事の新規購入は2023/03をもって終了しました