女王様のご生還 VOL.243 中村うさぎ

アメリカのドラマを観ていていつも驚くのは、子供の誕生日会の異様な豪華さである。

クラス全員をパーティーに招き、ピエロだの妖精のお姫様だのマジシャンだのを呼んだりしてめっちゃ金がかかってる風なんだけど、これってアメリカだけなの?

それとも最近は、日本でも子供のためにこんな派手な誕生日パーティーを開くんだろうか?

それでなくとも子供って学費やら何やらで大金がかかるのに、毎年毎年こんなパーティー開いてたら破産するんじゃないかと、他人事ながら気になって仕方ない。



私の子供時代のお誕生日会なんて地味なもんだった。

せいぜい仲良しの友達を数人呼んで、ケーキ食べたりボードゲームやったりする程度だ。

1960年代の高度成長期とはいえ、まだ1ドル350円くらいで、日本がアメリカより遥かに貧乏だったこともあるけど、そもそも子供のためにそこまで金を遣うという発想がなかったと思う。

もちろん子供は大事にされてたが、あんまり甘やかすのは教育によくないといった風潮があって、たとえ金があっても贅沢させない家が多かった。

そんな時代に育ったせいか、アメリカ人の子供に対するチヤホヤ感には、いつも違和感を覚えずにいられない。

あれが子供への愛情表現だと思っているのだとしたら、何か根本的に間違っているような気がするのだ。



アメリカ人というのは、こと「家族愛」に関して、とにもかくにもわざとらしい。

オフィスのデスクにわざわざ家族写真を飾る気持ちもわからないし(そのくせ、そのデスクで不倫セックスしたりするんだからお笑いだ)、何かというとハグだのキスだのして(スキンシップ大好きだよね)「愛してる」などと囁き合ってるのが、どうにも強迫神経症っぽく見えてしまうのだ。

そんなに頻繁に愛を確認し合わないと不安なのか?

目につくところに家族写真を置いとかないと家族を忘れてしまうのか?

電話切る時に必ず「愛してる」って言わなきゃ愛してる気分になれないのか?

むしろ、あれほど頻繁に「愛」の大安売りをしてると、愛という言葉の意味も重みも希薄になってしまう気がするのは私だけか?



ドラァグクィーンのエスムラルダが以前、「昔はブスコンプレックスが強くて容貌の事を言われるといちいち傷ついてたが、ドラァグクィーン仲間と『おはよ、ブス』みたいに日常会話で互いにブスブス言い合ってたら、『ブス』という言葉の殺傷力が薄まっていつの間にか平気になってしまった」的な事を書いていた。

その気持ち、よくわかる。

言葉というのは、あまりに多用すると本来の意味を失ってしまうのだ。

だから、本来は毒や悪意を含んだ言葉である「ブス」も、常用する事でたちまち形骸化してしまう。

それと同じように、「愛」という言葉も摩耗するのである。

「ブス」や「バカ」が無意味化してもべつにいいけど、「愛」はさすがにまずいだろう。

だってそれ、人間のライフラインじゃないか!



気持ちを言葉に出す事でそれがフィードバックされて、よりその気持ちが強固になる、という現象は確かにある。

「あー、やだやだ」と独り言を呟き続けていると、本当に心の底から嫌になる。

アメリカ人も、「愛してる」と言い続ける事で、自分の愛にハッパをかけているのかもしれない。

でもさ、愛って、わざわざハッパかけるような感情なの?

そこまでして愛を鼓舞する必要なくない?

なんか不自然なんだよねぇ。

欺瞞的っていうか、まるで何かの義務みたい……って、そうか! アメリカ人にとって「愛」は義務なのかもしれない。

「家族は愛し合わなきゃいけない」という強固な信念があるから、いちいちハグしたり言葉にしたりと、あんなに過剰に強迫的に「愛してる演技」が必要なのだ。

その儀式をやらないと、自分も相手も「愛」の不在に気づいてしまうから。

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