女王様のご生還 VOL.233 中村うさぎ

うさぎ図書館の方で60年代のキリスト教的禁欲主義について触れたので、こちらでは「禁欲の功罪」について私の意見を書き綴ってみようかと思う。



諸君、禁欲とははたして「美徳」なのであろうか?

多くの宗教が「禁欲」を旨とするのは、それだけ人間が欲深く罪深いからなのだろう。

確かに我々は欲のために他者を犠牲にしたり、平気で殺傷をしたりする生き物だ。

だから「欲」を「悪」とみなす気持ちは、まぁ、わからないでもない。

が、しかし、だ。

「欲」は人間の本能にしっかりと刻まれているものであるから、いくら禁欲に勤しんだからといって「欲」が完全に消え去るはずもないし、そもそも「欲」のない人間なんてあり得るだろうか?

人間が社会という群れに依存して生きている以上、「欲」をある程度制御する術は必要であろうが、行き過ぎた「禁欲」は逆効果なのではないか?



キリスト教のカトリックは「七つの大罪」を掲げ、「傲慢」「怠惰」「色欲」「強欲」「暴食」「嫉妬」「憤怒」を禁じた。

特に「色欲」については厳しく、聖職者は妻帯を許されなかった。

ちなみにプロテスタントでは、牧師の妻帯は自由である。

その結果、何が起きたか。



2002年、アメリカの「ボストン・グローブ紙」がボストン教区司祭のジョン・ゲーガン神父が30年間に130人の子供たちに性的虐待を加えており、教会側もそれを知りながら何ら手を打たずにひたすら隠蔽してきた事実を告発した。

この告発の経緯は「世紀のスクープ」というタイトルで映画化され、これがまた非常に見応えのある秀作なので、興味のある方はぜひ観ていただきたいと思う。

聖職者による児童や信者への性的虐待は告発以前から普通に存在し、ゲーガンの前任司祭ジェイムズ・ポーターも1950~60年代に少なくとも125人の子供に性的虐待を繰り返していた。

2003年の「ニューヨーク・タイムズ」は過去60年間で1200人を超える聖職者が4000人以上の性的虐待被害者を出していると報じ、翌年CNNは1950~2002年の52年間で性的虐待を疑われる神父は4450人、件数は約11000件にのぼると報道した。

いやもう、ものすごい数である。

そんじょそこらの小児性愛者の犯罪の比ではない。



カトリックの聖職者にこれだけ性的虐待者がいるのは、彼らが変態ばかりの集団だからでは決してない。

私が思うに、彼らが妻帯も許されず(もちろん婚姻外セックスも買春も論外)、極端な「禁欲」を強いられているのが、最大の原因であろう。

その証拠に、妻帯を許されているプロテスタントの牧師の場合、このような性的虐待スキャンダルはカトリックに比べて遥かに少ない。



もうひとつの原因は、彼らが「権力」を持っているという点だ。

ローマ法王を崇敬するカトリック信者にとって、法王に遣わされた神父は神の使いにも等しく、絶大な権力を持っている。

「権力」が「欲」と結びついた時、人は何でもできるような万能感に酔い、平気で禁忌を侵すものである。

ましてや長らく「禁欲」の鎖に縛られていた者が、その誘惑に打ち勝つのは至難の業だ。



私は聖職者の性的虐待事件に強い関心を持つ者だが、それは私にとって彼らが「禁欲」実験の絶好の被験者であるからだ。

「表現規制」を訴える多くの人々が口を揃えて「子供の教育に悪い」と言うが、エロスや暴力といった人間の本能に関わる欲望を子供の目から徹底的に隠蔽し、まるでこの世にそんなものが存在しないかのような無菌状態で育てた場合、それは「禁欲」状態とほぼ同じである。

そのように育った子供たちがやがて自然に芽生える性的衝動や暴力への欲動を処理できず持て余した結果、自分が支配できる(「権力」を行使できる)弱い者に向かってそれをぶつける危険性を、彼ら禁欲の聖職者たちが体現しているように思えるからだ。

この続きを見るには

(1,076文字)

¥250(税込)

購入して続きを読む