女王様のご生還 VOL.110 中村うさぎ

退院した直後に立て続けに仕事を失った時、自分はもう誰からも必要とされてないんだと思って絶望した。

だが、それから数年たった今、相変わらず誰からも必要とされていないが、べつにそれでもいいやと思うようになった。

私は必要とされるから生きているのか?

そういうわけではないだろう。



思えば「誰かに必要とされたい」という承認願望だけを燃料に生きてきたような半生だった。

仕事も恋愛も様々な依存も、すべての動機はそこに尽きる。

そして、それは私だけの病ではない。



映画やドラマを観ていると、国のためとか家族のためとか愛する人のためとか、じつにさまざまな理由を掲げて生き抜いたり命を捨てたりする人間たちばかりだ。

生きるのに、理由が必要なのか?

生きるために他者からの「要請」が必要なのか?



犬猫は誰からも必要とされなくても生きている。

そして、そのことに何の疑問も持たない。

そもそも生き物はみんな、自分のために生きるよう設計されているのだ。

人間だけが「自分のために生きる」ことができない。

「誰かに必要とされる」ことに価値が生じると信じ込んでいるからだ。

私を必要とする人がいようといまいと、私の命の価値は変わらないだろう。

いや、生きることや死ぬことの価値を判定できる者などいないのだ。



これから高齢化社会に向けて、世界には「何の役にも立ってない」老人たちが溢れかえる。

だが、何の役にも立たず誰からも必要とされない彼ら彼女らの命を「価値なし」と誰が判定できるだろう。

だが、おそらく心の中でそう思い始める人々は増えていくだろう。

何の生産性もない人間には価値がないと、無意識に考えてしまうからだ。

だが、はたして我々は生産性や必要性のために生きているのか?

そんなものはいつか失われてしまうのに?



時代や年齢や個人の能力差によって価値が変動するなんておかしいじゃないか。

でも、そんなふうに考えるようになったのは、私が役立たずになったからだ。

加齢と病気のせいで以前のように仕事をこなす体力もなく、ベッドに臥したまま漫然と日々を送るしかない立場になって初めて、「じゃあ、私は何のために生きてるのか?」と考えざるを得なくなった。

それまでは、「私の本を読んでくれる人がいる」というお役立ち感に己の価値を見出していたのだ。

返せば、それは「誰かの役に立ってない人間に価値はない」という思想と同じである。

ゲイや障碍者たちをアウシュビッツで殺したナチスと同じ優生思想だ。

間違ってるのはわかってても、我々はそんなふうに自分や他者を値踏みせずにはいられないのだ。

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