女王様のご生還 VOL.36 中村うさぎ

人間が豊かになればなるほど、その欲望のレベルも高くなっていく。マズローによると、その頂点は「自己実現」欲求らしい。

確かにそのとおりだし、我々の病のほとんどはこの「自己実現」欲求から生じていると思うが、それにしても「自己実現」って何なんだろう、と、改めて考えてみた。割と安易に「自己実現」という言葉を使うけど、結構その定義は人それぞれなんじゃないか?



たとえば「自己実現」とは「理想の自分になる」ことと考える人もいるだろう。だが、それは叶えられない欲求である。我々は「理想の自分」なんかになれないし、そんなものを追い求めている限り、常に自分にダメ出しし続けて自己嫌悪に陥るわけで、幸福とは言い難い状態で生き続けることになる。



また、「自己実現」とは「ありのままの自分で生きる」ことと考える人もいるだろう。しかし「ありのままの自分」とは何なのか。社会生活を営む身として「ありのまま」でいることなど可能なのか? そんなの単なるワガママではないのか? また、「ありのままの自分」というのがどんな自分か、それさえわからない人間は、永遠に「自分探し」を続けることになるではないか。それもまた幸福とは程遠い気がする。

要は自己肯定の問題なのだ、と考える人もいるだろう。だが、この「自己肯定」という言葉も「自己実現」と同じくらい曖昧で嘘臭い。「自己肯定」が「ありのままの自分を肯定する」ということなら、それって「開き直り」とどう違うの? 私のように「どうせ私はクソみたいな人間ですが、何か?」みたいに開き直ってしまった者は、ある意味「自己肯定」的であり、ありのままの自分で生きている「自己実現」に近いように思われるかもしれないが、私はそんなのインチキなんじゃないかと感じている。

開き直りで得られる自己肯定など、結局は自己欺瞞に過ぎないのではないか。我々は己の「負の部分」と格闘することなく、「受け容れて」しまって本当にいいのか?



私は自己肯定的な人間が嫌いである。なんか胡散臭い気がするからだ。人間はそう簡単に自己を肯定できる生き物ではない。

「自己肯定」は、ともすると「自己正当化」になりかねない。自分を客観的に肯定することが難しいからこそ、「開き直り」やら「自己正当化」といった自己肯定まがいのインチキな罠に足を取られてしまうのだ。

自己肯定など、安易に目指すものではない。自己否定感は確かに人を蝕むが、だからといってポジティヴならいいというわけではあるまい。「少女ポリアンナ」の「いいこと探し」のような無理やりなポジティヴ志向は、私にある種の狂気を感じさせる。固まった笑顔の裏に潜む、密やかで不穏な不協和音だ。そういうポジティヴは、内側からじわじわと人格を腐らせていく。

記事の新規購入は2023/03をもって終了しました