型が決まっていると書きやすい、けれど。(結城浩「書くという生活」)

こんにちは、結城浩です。

文章を書くときには「型(かた)」が決まっている方が書きやすいものです。

たとえば、私は毎週メールマガジン(結城メルマガ)を書いています。そこでは、自分で「本を書く心がけ」のようなコーナーを定め、そのコーナーの「型」に沿って文章を書いています。「型」が何もない、まっさらなところに書くよりも、このほうがずっと書きやすいからです。

「型」というのは一種の制約です。

「すべてが自由であるより、制約があった方が書きやすい」というのは、少し変な感じもしますが、考えてみると例はたくさん見つかります。

たとえばアンケート。

レストランのアンケートで、

 「何でも自由にお書きください」

と言われても、何を書けばよいのかすぐには思いつかないですよね。けれども、

 「値段についてはどうでしたか」

   …ちょっと高いかなあ。

 「味はいかがですか」

   …うん、まあまあよかったよ。

 「接客サービスは満足いただけましたか」

   …そうだね。満足満足。

このように個別に聞かれれば、答えやすいものです。つまり「何でも自由にどうぞ」というよりも「制約」がある方がずっと話が進めやすいものです。

さてここで、メルマガを書くことに話を戻します。メールマガジンにコーナーを設けて、「型」を定めると書きやすいものです。それは確か。

でも。

話はここで反転します。

でも、そのような「型」を定めた書き方だけをやっていると、文章が何だかコンパクトにまとまってしまいがちだなあ、と思うこともあるんです。

文章のスケールがちっちゃくなってしまう。読者さんの心にあまり残らない。文章が心にきちんと「ひっかかって」くれない。 可もなく不可もなくという文章になってしまう危険性を感じるんです。

ちょっと変な比喩を持ち出してみます。

きちんとコーナーに分けられ、「型」が定められ、コンパクトに区切られた文章は、素因数分解できる合成数のようです。たとえば24のように。

 24 = 2×2×2×3

このように24という数は2や3の積という形で表現できます。ばらばらっと分けることができ、構成要素がはっきりとわかる。ああ、2と3の掛け算でできているのね、と。別にそれが悪いわけではありません。でも、ときに私は「大きめの素数みたいな文章」を書きたくなります。

わかりにくい比喩ですかね。

大きめの素数とは、たとえば、24じゃなくて、29のような数のこと。

 29

29は素数です。これ以上素因数分解はできません。つまり、29の構成要素はよくわからない。

12や、24や、36みたいな合成数は区切りもいい感じ。親しみも持てる。とらえやすい。わかりやすい。ひっかからない。

それに対して、11や、17や、19や、29みたいな素数は、塊を塊としてとらえるしかない。どうもごつごつして落ち着かない。そんな印象があります。

そんな文章って書けないのかな、と最近よく思うんです。

(感覚的な話ですみません)

この文章は、何を言いたいのかよくわからない……んだけど、でも、なぜか気になる。

どうも、この文章は無視できない。

この文章を読んでいると、ちょっと心が落ち着かないけれど、もっと先が読みたくなる。

一度読み終えてからも、気になるから、むしょうに読みかえしたくなる。

そんな不思議な文章は書けないかな、と思うんです。

人間の理解は、単純じゃない。まっすぐじゃない。

話を聞いて理解するときでも、文章を読んで理解するときでも、すぐにパッとわかることもあるけれど、そうじゃないときもある。

すぐにわかることだけが大事じゃない。構成要素が明確なことだけがいいわけじゃない。答えが即座にわかることだけが求められているのではない。

昔の「なにげない一言」が、ずっと心にひっかかったままになっていて、あるときフッとわかる。「ああ、そういうことだったのか」って。そういうこと、誰しも経験があると思うんです。

いつの日か、そんな体験をするような文章を書いてみたい。

結城は最近、そんなことを考えています。

結城メルマガVol.014より)