いつか「あなた」に届くまで(結城浩「書くという生活」)

たとえばTwitterで。

主張としてはとても正しいけれど、言葉として表現するときに「悪態」まじりにツイートしている人がいる。結城は「悪態」をここに挙げたくはないので具体的には書かないけれど。

いくら「なるほど」と思う主張であっても、その「悪態」があるためにリツイートをためらうことがよくある。

結城がリツイートすると、その「悪態」が自分のフォロワーさんに届くことになるからだ。たとえ、主張が正しいとしても、よっぽどのことがないと「悪態」を届けたくはない。

そして、悪態まじりのツイートについて考える。

悪態まじりのツイートをする人は、読み手が何を感じるかには、それほど重きを置いていないのかな、と思う。読み手がツイートから受ける印象に鈍感なのかもしれない。

大事な主張であればあるほど、多くの人に届けたい主張であればあるほど、読み手が受ける印象に注意を払うべきだと思う。できれば落ち着いた表現で、ていねいな言葉遣いが必要だ、と結城は考える。

いや、実際のところは、結城は間違っている可能性もある。悪態まじりのツイートの方がたくさんリツイートされ、センセーショナルな書き方の方が多くの人に届くのかもしれない。

しかし、落ち着いた表現の、ていねいな言葉遣いの方が、結局は良質なチャネルを通じて遠くまで届く…結城はそのように信じたい。胸に手を当てて考えてみると、自分自身もそんなふうにできないときもあることに気づくのだけれど。

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遠くに伝えたいと思うなら、言葉を選ぶ必要がある。とても遠くに伝えたいと思うなら、時間を掛けて言葉を選ぶ必要がある。遠くまで行く隊商が時間を掛けて積み荷を選ぶように。

時間は大切な要素である。考える時間。文章を書き、読み返し、直す時間。

時間を掛けて言葉を選び、自分の文章を繰り返し読み、いらない言葉をたくさん削り、必要な言葉をそっと戻す。それが物書きの毎日である。

自分が執筆と推敲に使える時間を言葉の「出し入れ」に費やす。それが物書きの毎日である。

結城はそんなふうに思っている。

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そしてまた、悪態まじりのツイートについて考える。

そうか、多くに伝わればいいというものではない。遠くまで届けばいいというものではない。

あたりまえのことだけれど、何をどのように誰に伝えたいかが大切なのだ。

自分が伝えたいことを「自分の言葉」に乗せて世界に送り出す。それは、自分の隊商を、遠い国に向けて旅立たせるようなものだ。自分の言葉に乗せて伝えたいことを旅に出したあと、書き手は助けを送ることができない。

いつか「あなた」に届くまで、無事に旅を進めてほしい。

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そんなことを考えながら、今日もTwitterのタイムラインを眺めている。

結城メルマガVol.113より)