女王様のご生還 VOL.228 中村うさぎ

先日、マツコ・デラックスと仕事で会った時に、夫が私の日常生活を「食ってるかウンコしてるか寝てるか」と描写したところ、マツコに「あんた、動物みたいね。幸せよねぇ」としみじみ言われた。

まぁ、確かに、ろくに仕事もせずにぶらぶら暮らしているのは幸せだと思う。

世の中、大多数の人が嫌々ながら働いているというのに、食って寝て排泄するだけなのだから何の悩みもない。

だが、その代わりに、生きている実感に乏しいのも事実である。

要は「幸せとは何か」という定義の問題であり、常々言っているように私は「自分の幸せは自分で定義すべき」と思っている。

ならば、私は自分の今の生活を「幸せ」と定義するのか?



経済的な不安はあるものの、だからといって往年のごとくバリバリ働く気力もなく、楽しみといえばアニメやドラマを観る事だけ。

誰かに何かを強制される事もない代わりに、誰からも必要とされずぽつねんと生きている。

確かに、ラクだ。

いつも何かに追い立てられるように生きていた頃に比べると非常にラクだし、おそらくもう二度と昔のような暮らしには戻れないと思う。

が、「ラク=幸せ」かといえば、そういうわけでもなかろう。

昔の私は常に地獄と天国を行き来しながら生きていた。

地獄の苦しみがあったからこそ、天国の愉悦もひときわの味わいだったのだ。

ゆえに、地獄から解放されたと同時に天国も失った。

「地獄から抜け出したら、そこは砂漠だった」と、以前の私は書いている。

今がまさに、その「砂漠」状態だ。

目の前には延々と広がる砂ばかり、目指すべきゴールはどこにも見えず、歩いても歩いても変わり映えのない風景が続くだけ。

じりじりと身を焦がす欲望もなく飢餓感に苛まれる事もないのはある種の「解脱」なのかもしれないが、ならば「解脱」とは何と味気なく単調な境地であろうか。



それにしても人間の順応力というのは侮れないもので、以前はこの砂漠生活が虚しくてたまらず何とか脱却したいと願っていたのに、今ではすっかり慣れて何も感じなくなってしまった。

このままずっと、死ぬまでぼんやりと生きていくんだろうな。

昔は考える事が大好きだったのに、最近は考える事すら面倒くさくなってきた。

このままでは脳が衰え、認知症一直線である。

私より先に認知症になった母は、今の私と同様、変わり映えのない砂漠の日々に味気なさも空虚さも感じず、何の感慨もないままにただ食って寝るだけの淡々とした毎日を送っているのだろうか。

はたしてそれは彼女にとって幸せなのか?

本人に問い質せないので何とも言えないが、最後に会った時の母は貧血で死にかけていたにも拘らず、きわめて平和な顔で一日中うつらうつらしていた。

スプーンでプリンを口元に運んでやると、小鳥の雛のように大きく口を開けて受け容れ、それからにっこり笑って胸の前で手を合わせ「ありがとう、ありがとう」と呟くのだった。

その姿は仏のように見えない事もなかった。

あれも一種の「解脱」なのだろう。

放っておくと空腹を訴える事もせず、ただただぼーっとしているだけなのだから。

自分が生きているのか死んでいるのかも認識していなかったに違いない。

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