癌になったものの命を取り留めた友人が何人かいて、彼女たちがさばさばとその話をするのが好きだ。
友人のモリナツ(作家の森奈津子さん)は病院で受けた検査中に死にかけたそうだが、その時のことを今はオナニーのネタにしているそうだ(笑)。
呼吸ができなくて痛くて苦しかった思い出なのに、それを性的快感に結びつける才能には感嘆する。
私も病院で死にかけたけど、本人も死を予測する暇がないほどあっという間だったので、オナニーのネタどころか記憶にすら残っていない。
何だか損した気分だ。
自分も含め死の瀬戸際を体験した人の話を聞いていて思うのは、「死」とはみんなが思っているほどの重大事ではなく、日常の延長線上にある淡々とした出来事だ、という事実である。
「死」は日常なのだ。
遺された者たちにとっては「大切な存在だった人の突然の不在」は耐えがたく、日常どころか、予告もなくいきなり襲いかかってきた非日常的不幸には違いないが、当人にとってはいとも呆気なくあっという間の出来事だったりするのである。
だから、生還してもサバサバしてて、笑いながらその話をしたりするのだ。
生き物には「生存本能」があるから、ただただ盲目的に「死」を回避しようとする。
それが「死への恐怖」という形で我々を支配しているわけだが、何のことはない、「死」なんてものは単なる日常の終わり……意識がプツンと切れてそれっきりなのであって、恐れる必要などまったくないのだ。
私は死ぬことよりも、何が起こるかわからない「生」の方がよっぽど恐ろしい。
だって、死んだらもう何も起こらないもん。
悲しい想いや苦しい想いもなくなるんだよ?
めっちゃラクやんか!
死について考える時、いや、死ねなかった自分について考える時、志賀直哉の有名な短編「城崎にて」を思い出す。
事故で九死に一生を得た主人公が城崎温泉で療養中に、ふとイタズラ心で小石を投げたところ、それがイモリに命中して死なせてしまう。
「イモリは死に、私は死ななかった」と、彼は述懐する。
「生」と「死」は常に隣り合わせであり、自分が「生きている」ということも単なる偶然の産物に過ぎない。
イモリにとっては、突然飛んできた石によって自分が死ぬことなど予想もつかなかっただろう。
人間だって、イモリと同じくらい呆気ない偶然によって命を落とす。