女王様のご生還 VOL.150

「幸福な家庭はどれも似たようなものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」という「アンナ・カレーニナ」の一節は未だに「名言集」などに入れられている有名な言葉だが、はっきり言ってどこが名言なのか全然わからない。

おそらくトルストイの時代、「幸福な家庭」という概念にはひとつの定型があったんだろう。

その定型にぴったり収まってる家庭は「幸福」とみなされ、それ以外は「不幸」と思われたのだ。

だから当然、幸福な家庭は似たり寄ったりになるし、そこから外れた不幸な家庭は多様性に富むこととなる。

単にそれだけの話じゃないか。

夫がゲイで子どももいない我が家なんか、彼の視点からは「不幸な家庭」に認定されたに違いない。

でも、私は幸せですよ、トルストイさん?



つまり、「幸福」に定型があれば誰もが幸福を目指しやすくなる反面、非常に類型的で抑圧的な「幸福」しか存在しなくなる。

一方、トルストイの時代と違って「幸福」に多様性が認められた現代では、幸福な家庭や幸福な人生の方が多種多様になり、不幸な家庭や不幸な人生が類型化しているような気がする。

仕事でもプライベートでも人から人生相談めいたものを受ける機会の多い私は、「人間の悩みってなんてバリエーションが少ないんだろう」といつも感心してしまうのだ。

圧倒的に多いのは「職場や家族や恋人とうまくいかない」という人間関係の悩みだが、相手や本人の性格や言動に多少のバリエーションはあれど、結局はどれも「他人が自分の思いどおりにならない」という当たり前の事実に収斂されるもので、そもそも「他人が自分の思いどおりに行動してくれる」という期待そのものが間違っているのである。

そんな前提で生きてる限り、誰ともうまくいくわけないっしょ。



また、私のように「ああ、生きてても何の意味もない。つまらないから早く死にたい」と願っている人種も不幸といえば不幸だが、本人が「死ねば楽になる」という希望を持っていられる分、ある意味で幸福かもしれないと自分では思っている。

「生きてるのが楽しくて仕方ない」なんて時期は人生のほんの一瞬だし、たいていの人はさして楽しくもない人生をだらだらと送っていて、それが「常態」なのである。



なんかさ、みんな他人や人生に期待し過ぎなんだよね。

そんな期待はたいてい裏切られるし、そのたびに不幸だと嘆いてたら、そもそも幸福な人生なんてあり得ないってことになるじゃん。

「誰にでも幸福になる権利はある」と教えられて育つから「私も幸福になっていいはずだ」と思うんだろうけど、自分を幸福にできるのは自分だけだからね。



本当の不幸とは「逃げ場のない絶望の中に生きること」だと私は思う。

「誰かが私を幸せにしてくれるんじゃないか」とか「死ねば楽になるんじゃないか」とか、そんな希望すら持てない状態だ。

たとえば酷い虐待に遭ってる子供は「不幸」である。

どこにも逃げ場がないからだ。

死と隣り合わせの差別を受けていた時代の黒人やユダヤ人や同性愛者も「不幸」であった。

どこにも希望がないからだ。

自分に向けられる憎悪や暴力を当然のように共有している社会で生きるなんて地獄じゃないか。

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