女王様のご生還 VOL.194 中村うさぎ

性的表現に限らず、すべての表現は自由であり、規制されるべきではないと私は考える。

その代わり、表現者は自分の作品に責任を持ち、批判される事も覚悟しなくてはならない。

何故なら、表現が自由であると同時に、表現物に対する批判も自由だからである。



「羊たちの沈黙」という有名な作品がある。

元は小説だが1991年に映画化され、ジョディ・フォスター、アンソニー・ホプキンスといった名優たちの演技もあって高く評価されたヒット作だ。

私の大好きな映画のひとつでもある。

だが、この映画が封切られた時、ゲイたちが映画館の前で抗議のデモを行なった。

映画に登場する連続殺人鬼が女性の身体を手に入れたいと願うトランスジェンダーだという設定だったからだ。

こんな描かれ方をしたらゲイやトランスジェンダーへの偏見と差別を助長するではないか、という抗議である。

デモに参加した者の中には上映禁止を訴える者もいた。



彼らの怒りは理解できる。

それでなくても日頃から差別的な目で見られているゲイやトランスジェンダーたちにとって、「殺人鬼の正体はオカマで、自分が女になりたいから女たちを殺して皮膚を剥ぎ、その皮で作った服を着て女装していたのでしたー」なんて話は受け容れ難かろう。

「やっぱ、こうゆうやつらは変態だよな。人を殺しかねないぜ」と言われたも同然、という気持ちだったんだと思う。

だから映画館の前で抗議デモをやりたくなるのはわかるし、「みんな喜んで観てるけど、この作品にはゲイやトランスジェンダーへの差別が含まれていて、傷つく者もいるんだぞ」と言いたかったんだろうなと思う。

が、しかし、だ。

ゲイシンパシー高めの私でも、「上映禁止」の要求はやり過ぎだろうと思うのだ。

抗議するのはいい。作品に含まれた差別意識を批判するのも大いにやりたまえ。

でも、「上映禁止」は「表現の規制」だ。

いくら不愉快な作品でも、それを規制したり禁止したりする権利は誰にもない。



このような差別的とも受け取られかねない作品ではあるものの、私は「羊たちの沈黙」が好きだ。

素晴らしい名作だったと今でも思っている。

だがもちろん、彼らの抗議によってこの映画に反感を持った人もいるだろうし、嫌いになった人もいるだろう。

それはもう観客の判断に委ねられるのだ。

言われなければ差別に気づかなかった観客も大勢いただろうから、彼らの抗議デモには意義があった。

そのうえで、あの作品をどう評価するかは、観客のひとりひとりが自分で決める事だろう。

「上映禁止」にしてしまったら、観客はその問題について考える機会も奪われる。

少しでも誰かを傷つけたり不快にさせたりする表現がすべて禁止されるなら、表現者はおちおちと作品を作ることもできなくなり、この世から表現物の大半は姿を消すだろう。

そしてこの世界からすべての「差別」が消える、という事になる……のか、本当に?

いやいや、それはなかろう。

上映禁止とか言葉狩りとか、そういった規制行為は何も生まないでしょう。



原作者のトマス・ハリスにゲイへの差別感情があったかどうかはわからない。

ただ、「殺した女の皮を剥ぎ、その皮で作った服を着る」のは、過去にエド・ゲインというシリアルキラーが実際にやった行為だ。

おそらくそこからヒントを得た作者は、その動機を「女の皮で服を作る→女になりたい男→したがって犯人はトランスジェンダー」と考えて、あのストーリーを組み立てたのだろう。

その思考経路がそもそも差別的なのかもしれないが、作者的にはすこぶる筋の通った動機だったのだと思う。

おそらくトマス・ハリスに自覚的な差別感情はなく、べつに「ゲイやトランスジェンダーは頭のおかしい変態野郎たちだから平気で人殺しもしちゃうぜ」なんて言いたかったわけではないのだ。

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