ジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンについて「うさぎ図書館」の方で書いたが、彼についてもう一点、語りたい件がある。
彼は後日、レノン射殺の動機についてこう述べた。
「僕はずっと何者でもなかった(原文では「ノーバディ」と言っている)。でもジョン・レノンを殺して初めて自分が大物になった気がする」
この発言を「有名人を殺す事で有名になろうとした病的な自己顕示欲の塊」と捉えて「理解不能の狂人」と決めつけるのは簡単である。
確かに「新聞やTVのニュースで自分の存在を世間に知らしめたい」という動機で犯罪をおかす人間はいるし、チャップマンの中にもその種の自己顕示欲や承認願望は少なからずあったろう。
が、はたしてそれだけだろうか?
彼の「何者かになりたい」という気持ちは私にもわかる。
自分は何者でもないという心もとない感覚、そして何かを成し遂げて人々に認められればこんな自分でも「何者か」になれるんじゃないかという期待。
そう、いわゆる「自分探し」だ。
私は30代の頃、この「自分探し」という言葉が大嫌いで、「自分って探すもんじゃないでしょ」的な意見を大昔にエッセイで述べた事がある。
今でも基本的には同じ考えだが、ただ以前ほど「自分探し」という言葉を嫌悪はしていない。
「まあ、気持ちはわかるよ」という感じである。
何故なら20代の私はまさに「自分探し」に邁進していたからだ(苦笑)。
そんな自分への嫌悪が「自分探し」という言葉への嫌悪になっていたわけだ。
大学で現代アメリカ文学を専攻した私は、授業でソール・ベローの「雨の王ヘンダソン」という小説を読んだ。
その作品で心に残ったのは、主人公が「何者かになる(become)のではなく、自分である(be)ことこそ重要」という結論に至る箇所だ。
我々は生まれた時から「自分」なのである。
だからわざわざ今の自分とは違う何者かになる(become)必要はない……そう言われたような気がしたのだ。
だが、「自分のままであれ」と言われても、そもそも自分が何者なのかわからない人間はどうすればいいのだ?
私は中学生くらいの頃に「自分は何者なのだろう」と考えて以来、ずっとその答を探してきた。
たぶん、これからもずっと探し続けるだろう。
もしかしたら死ぬまで答に辿り着けないかもしれないが、それでもきっと「自分探し」をやめられない。
その疑問を持ったが最後、それはもうライフテーマみたいなものなのだ。
高校の頃にカフカの「城」を読んだ時に「ああ、これは神を探す物語なのだ」と感じたのも、私自身が神を探し当てて「私は何故この世に生まれてきたんですか?
私はいったい何者で、何を為せばいいんですか?」と尋ねたかったからだ。
自分を村に招聘した雇い主の意図を知りたくてずっと城の周りをぐるぐると歩き続ける主人公の姿は、自分がこの世に生まれてきた意味を知りたくて、でもどうやったら答が見つかるのかもわからなくて、ただひたすら堂々巡りしている自分に重なった。
私は途中から神を信じなくなったが、もし神がどこかにいるのなら、今でもその首根っこを掴まえて問い質したいほどである。