「天才と名人」料理展望1(山本益博)

「天才と名人」

私は若いころから、名人ばかりを追いかけてきた。きっかけは、浅草の老舗の鮨屋「弁天山美家古寿司(べんてんやまみやこずし)」の四代目内田榮一さんの握りだった。左手にすし種を持ったと思ったら、瞬時に右手で酢めしをひとつかみ、そして、すし種と酢めしを目にも止まらぬ最短の速さで合わせ、美しい地紙の形に握って見せたのだった。地紙とは扇の紙のことで、横から見て流線形になるように握るのが江戸前のすし職人の流儀だったのである。まぐろの赤身、こはだ、あなご、とそれぞれ違うすし種に合う酢めしの量を一瞬にして図り、動きを最小にとどめて握る姿は、名人そのものだった。

その後は、大学生になったときに出逢った落語家桂文楽の高座。落語は「噺」とか「咄」と書いて、あたかもいま思いついたかのように、口から出まかせでしゃべる話芸である。にもかかわらず、いついかなる高座でも、噺の冒頭の「まくら」から一言一句変わらず、いつでも完璧を目指す話芸だった。それだけに、晩年、登場人物の名前を忘れて絶句し、「もう一度勉強し直してまいります」と言って高座を降り、二度と客の前に姿を見せなかった名人は何とも哀しかった。

当時、まぎれもなく「天才」と思ったのは、立川談志である。

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