女王様のご生還 VOL.154 中村うさぎ

例の原因不明の大病とその後の顛末(身体が不自由になったり仕事がなくなったり)は私の人生においてもっともつらい時期ではあったが、前回書いたようにその体験は私にいろいろな事を教えてくれた。

老化と死に対する心構えもそのひとつだし、仕事を失う事によって「社会から見捨てられる」という最も恐れていた事態に陥ったものの「べつに役立たずでもいいじゃん」という悟りにも似た開き直りに達し、今では「そもそも人間は誰かの役に立たなきゃ生きてちゃいかんのか?」などと考えるようになった。



私がずっと求めてきたのは「私とは何者か」という問題の答であったが、その「私」というアイデンティティには「他者や社会にとっての私」という要素も大いに含まれていて、「他者にとっての価値=私の価値」だという考え方からどうしても脱却できなかった。

性愛的な意味においては「男に求められる=私の価値」であったし、仕事の面でも「社会に認められること=私の価値」であり、友人関係や読者との関係においても「必要とされること」が私という人間の価値を決定しているように感じていた。



だが、諸君。

今や男からも相手にされなくなり、仕事も社会的承認も失い(週刊誌の「あの人は今」状態だよ)、ほとんどの友人と疎遠になっている私は、もはや「何者でもない」のだろうか?

そんなことはない。

私は相変わらず「私」であり、べつに誰にも承認されなくても、誰にも必要とされなくても、私という人間のアイデンティティや価値基準にはさして影響がないのであった。

私は「他者にとっての私」ではない。

「私にとっての私」なのだ。

どうしてずっと勘違いしてたんだろう?

私にとって「私」が揺るぎなき存在であれば、他者の承認など必要ないではないか。



私はずっと自分が許せなかった。

理想の自分になれないからだ。

だがその「理想の自分」とは、そもそも他者を基準にして作られたものではなかったか?

美しい私、聡明な私、才能ある私、愛される私……それらの理想像はすべて「他者にとっての私」である。

他者の介在なしで、私が「理想の私」を思い描くことはほぼ不可能であった。

そして、そんな虚構の「私」に、私はずっと苦しめられていたのだ。



「老人になること」は、ほとんどの場合、他者から必要とされなくなることを意味している。

いや、必要とされないどころか、厄介者になることすら示唆しているのだ。

我々が「老化」を恐れるのは、死が近くなるからではなく、「他者から必要とされなくなる」からではないだろうか。

少なくとも老化に抗っていた頃の私は「醜くなること」を恐れていた。

しかし美醜なんてものは、他者の目が介在しなければ何の意味もない。

ボケるのが怖かったのも、「他者に迷惑かける」からだ。

でも、いざボケてしまえば、他者の目なんかどうでもよくなるから楽なもんである。



「死」が究極の「無」であるとすれば(私はそう確信しているが)、「老化」とは「無」に向かっていろんなものを失っていく過程と言えよう。

そこで「失っていくもの」とは、身体的な機能だけでなく「他者」だ。

認知症の母を見ていてもわかるように、「脳の劣化」とともに人は「他者」を失っていく。

もっとも身近な他者である夫や娘が誰だかわからなくなり、他人の目を気にしないから服装は乱れ風呂にも入らなくなり、糞尿を漏らしても動揺すらせず、脳内で過去と現在を行き来しながら自分だけの世界で生きている。

傍目には滑稽でみっともない姿だが、ある意味、究極の自由ではないかと私は思う。

誰がどう思おうとも意に介さず、好きなように振る舞っていいんだよ。

自分を責めたり恥じたりすることもない。

老化とは「他者からの解放」なのだ。

そして最終的には「死」という絶対無に到達し、自分からも解放される。

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