女王様のご生還 VOL.241 中村うさぎ

私はお花見が嫌いである。

64年の人生で、お花見に誘われた事は数えきれないほどあるが、参加したのは3、4回くらいだ。

とはいえ、べつに桜が嫌いというわけではない。

いや、むしろ好きだ。

はらはらと散る桜吹雪を見かけると美しいと思うし、思わず足を止めて見惚れたりもする。

蒼黒い宵闇の中に亡霊のごとく白く浮かび上がる夜桜にも心を奪われる。



だが、お花見は嫌いなのだ。

誘われても全然気が進まないし、そもそも「花見」というイベントの意味がわからない。

桜の木の下で宴会を開く必要があるのか?

酔っ払って騒ぐのは嫌いじゃないが、そういうのは街の酒場でやればいいじゃないか。

わざわざ桜の木の下でやる必要ある?

トイレも不便だし、終わった後でゴミを片づけるのも億劫だ。

酒場ならそんな面倒に心を砕くこともないのに。



桜を鑑賞するなら、独りがいい。

酔っ払いの喧騒に邪魔されず、ただただ無心に舞い落ちる桜をひっそりと味わいたい。

あの幽玄な美に、酔客たちの奇声や乱行や高歌放吟は似合わない。

幻想的な気分が台無しだ。

桜だけではない、紅葉も雪景色も、他人がそばにいるとゆっくり楽しめない。

ああいうものは他人と共有するようなものではないと思う。



20年ほど前、友人とスペインに行った折、夜中に目が醒めて窓の外を見たら、庭の糸杉が風になぶられてざわざわと蠢いていた。

「ああ、ゴッホの糸杉だ」と思った。

ゴッホの糸杉はまるで生き物のように、いや生命そのもののように、ほとばしるエネルギーの塊として描かれている。

天空に向かってうねり、もどかしげに身悶えしているその姿には、生きるものたちの悦びと苦悶が渦巻いている。

ゴッホが描いたのは昼間の糸杉だったが、夜の闇の中で黒々と身をよじらせる糸杉はより激しい悲嘆と苦悩に苛まれているように見えて、声なき慟哭が聞こえて来る気がした。

それは美しいというより恐ろしい姿であり、私を窓辺に釘付けにした。

友人はベッドですやすやと眠っていたが、彼女を起こそうという気には微塵もなれず、むしろこのまま眠り続けて欲しいと願った。

この光景を誰とも共有したくなかったのだ。

そこで蠢いているのは私だけの糸杉だった。



桜に関しても、私は同様の気持ちを抱いている。

たとえうるさい酔っ払いがいなくても、誰かひとりでも他人が傍にいるだけで、それは私の桜ではなくなってしまう。

「綺麗だねぇ」などと頷き合っても、どうせ同じ桜など観ていないのだ。

私の桜は私の中にしか存在しないし、それを他人と共有などしたくない。

ましてや言葉で感想を伝え合う気なんかさらさらない。

下手に言葉を交わしでもしたら「綺麗だねぇ」「素敵ぃ~」などという薄っぺらな会話でその場が完結してしまい、私の心に渦巻くものが桜の花びらよりも儚くさらさらと散り落ちて消えていく。

そのような状況では、あの糸杉から受けたような感銘など望むべくもない。

独りで鑑賞しなければ、「私だけの桜」が姿を現さない。

なのに、人はどうしてあんなにも花見が好きなのだろう。

散る花びらの中で酒を飲んだり食ったり語り合ったりして、彼らはいったい何を共有しているのか。

私にはそこがまったく理解できないのである。

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