今日も怪獣日和 第7回「アニメと怪獣の超えられない溝」

●“ツルツル対ゴツゴツ”アニメと特撮を代表する感覚とは?

 この連載を始めるときに打ち合わせたことを、すっかり忘れていた。多少なりともアニメーションの世界と特撮と橋渡しをするようなことが書けないか、といったリクエストが実はあったのである。実際にはそういったネタがタイムリーかつ潤沢にあるものではないので、好き勝手にネタを選別して書いていた。ここはひとつ初心にかえってアニメに引っかけた怪獣話をしてみよう。

 筆者はアニメで描かれた“怪獣”というものに対し、基本的には違和感がある。それは、『ザ・ウルトラマン』や『ウルトラマンUSA』における怪獣がどうのという表層的な意味ではない。基本的にアニメには“怪獣”なる存在を描きにくくしている大きな壁があるのではないかと考えている。それに対して深く考えず、解決手段を持たずして不用意にアニメ怪獣を登場させたりすると、結果に大きな「?」がつく。そんな作品のほうが多いのではないかと、ずっと疑ってきているのである。こうした考察からも、怪獣の本質が分かるかもしれない。

 たとえばアニメで描かれた“モンスター”になると、別に良いような気がしてくるからとても不思議だ。狼男もフランケンシュタインもキングコングも別にOK。人形アニメの『アルゴ探検隊』のドクロ戦士も別にいいんじゃない? これは「秘境世界の万丈」(ダイターン3)を観たばかりだから思い出しただけだけど。

 もちろんアニメの妖怪もOK。これも『ゲゲゲの鬼太郎』が証明していることである。ところが妖怪が特撮世界に出てくると、『悪魔くん』の百目ガンマーも大海魔パイドンも急に“怪獣”の仲間に見えてくる。まあ怪獣ブーム全盛期の作品だから、ペロリゴンやモルゴンあたりは当然ではあるのだが。

 そう考えていくと、いったいなんだって“怪獣”だけがアニメと特撮の間にある溝をわたれないのか、すごく奇妙に思えてくるのである。そこで最近考え始めているのは「ツルツル対ゴツゴツ」が原因ではないか、という仮説だ。“ツルツル”というのはアニメのセルの質感のこと。“ゴツゴツ”とは怪獣の着ぐるみの持つ皮膚感覚のこと。結局、われわれのハマっている特撮・アニメといった空想映像の世界は、この質感が影から支配しているのではないのか? そんな大胆な仮説だ。

 これは歴史が証明していることでもある。今年で40周年(掲載当時)の『鉄腕アトム』はエポックメイキングだった、大人気だった、大評判だったと良く言われる。であれば、子どもはアトムのどこが良いと思ってたのか? たいていの本には「詩情あふれるキャラクター」「ヒューマンなドラマ」などと書いてあるだろう。

 冗談じゃない。そんなものは、当時の子どもたる筆者は、まったく眼中になかった。じゃあ何が良かったかというと、それは間違いなく「アトムが持つツルツル感」である。はい、証拠を提出。アトムにまつわる最大の記憶は明治製菓マーブルチョコレートのおまけ「マジックプリント」だ。あれはアトムが示す世界観のカギ、「ツルツル感」を体現したアイテムであるから受けたのだ。当時の視聴者で、そうは思っていない方は、後づけの手塚神格化的歴史観で記憶操作された可能性を疑ってみた方が良い(笑)。

 その直後、もっとツルツルしていそうな表面処理で描かれた鉄人28号やエイトマンが登場すると、私はそっちの方をより好むようになった。長じてアニメファンになったときにセル画を集めようとしたのも、この「ツルツル美学」が心の底から刷り込まれていたという証拠ではないだろうか。

 そんな子どもの価値観をくつがえしたのが、1966年放映の『ウルトラQ』だった。以前も書いたが岩石怪獣ゴルゴスに驚いたのが怪獣人生の始まり。初めて見つめた映像の怪獣とは、背中はゴツゴツ、腹はブヨブヨ、目はギラギラ、心臓はドックンドックンの、アニメでは当時なら絶対に見られない質感を誇示しながら迫り来る、驚きの空想生物だった。ウルトラQはモノクロ画面だし、そもそもテレビも雑誌もモノクロ主流の時代だから、皮膚感はキャラクター性をアピールする手がかりとして重要だった。パゴスなども肌の良い質感を持っていたことで記憶に残った怪獣の代表である。

 複合度が高く、情報量も大きく高密度な特撮映像──その価値が集約された象徴が、怪獣のゴツゴツの皮膚感であるとも言える。ツルツルのアニメは当時ゴツゴツの怪獣に負けた。そういうことなのだ。

 ところがツルツルだったはずのアニメがゴツゴツに近いものを取り入れ、怪獣に逆襲をかけてぶっとばした瞬間がある。それは1960年代末、劇画ブームと呼応して導入されたマシントレスと特殊効果(ブラシやタタキ)が、アニメのセルをダーティに変えて質感を意識した仕上げを取りこみ始めた時期である。その質感に裏打ちされ、動きや演出も変わる。『巨人の星』の異次元空間のような大リーグボール、『タイガーマスク』の意表をつく豪快なアクションなど、それまでにない卓越したものが次々に登場した。ゴツゴツの怪獣とはまた違う、超現実的な汚い映像が出現したのだ。

 生殖細胞が接触したときに遺伝子を交換するように、アニメと特撮、本来超えられないジャンルの間をさまざまなファクターが行き来し、進化する。それでもまだ超えられないものも残ったりする。その発見が、研究の面白い部分なのである。

 ところで──と急に話を端折るが、第三勢力として登場したCG映像は、はたしてツルツルの仲間なのか、ゴツゴツの仲間か、どちらなのだろう?

 強いて言えば、そのどちらでもない。CGの質感は“ギラギラ”である。ここで言うギラギラとは、アマルガム(歯につめたりする流体金属)や、プラカラーの銀色が古くなって底にドロっと沈み込んだものみたいに全体がメタリックで、触るとイヤーな感触がしそうなもののことである。

 すでに内外の映画では、CGで描かれた怪獣が何体も出現している。うまくいっている表現も少なくないが、どうも皮膚を手で触ると金属のベタっとしたものが付着しそうな“ギラギラ”したものがいくつもある。あれは私の好きな“ゴツゴツ”怪獣とは別ものだと思っている。

 かくして今は、“ツルツル対ゴツゴツ対ギラギラ”の時代に入ったということになる。デジタルペイントのアニメはクリア過ぎるため、ツルツルを超えて“パキパキ”の世界に行きかけてしまい、大あわててノイズを加え、セル画とフィルム的な質感を取り戻そうとしている。同様に、CGを導入した怪獣映画も、ギラギラの度合いを押さえてゴツゴツに戻そうとする日が来るのではないか……。

 こうした「質感」こそが、映像で描く意味のひとつなのだ。そこには意外なメディアの属性が絡みついていたり、“怪獣”や“ロボット”の本質が潜んでいたりする。それに作り手・受け手はどれくらい自覚的なのだろうか? テーマだ設定だデザインだというよりも、映像研究にはまずこういう検証こそが重要だと、筆者は常々考えている。

【2003年1月6日脱稿】初出:「宇宙船」(朝日ソノラマ)