[歴史発想源] <精強の証左・赤備軍団篇>第四回:主君の失策に死す「長篠の戦い」

甲斐の虎・武田信玄死す…! 最強部隊「赤備え」を先頭に徳川家康を三方ヶ原で打ち破り、織田信長を震え上がらせた武田騎馬隊は、甲斐国へと引き返すことに。

そしてここから、天下の情勢は一気に変化していきます。赤備え隊の運命や、いかに。

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戦国最強の精鋭部隊「赤備え」を率いた名将たちを描く「精強の証左・赤備軍団篇」(全8回)、第4回をどうぞ!

※副題は便宜上「井伊直政の章」となっていますが、井伊直政だけではなく飯富虎昌、山県昌景、井伊直虎、真田信繁(真田幸村)、井伊直孝など、様々な名将たちが登場します!

▼歴史発想源「精強の証左・赤備軍団篇」〜井伊直政の章〜

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【第四回】主君の失策に死す、長篠の戦い

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■甲斐の巨星堕ちて、新当主・勝頼登場

元亀4年(1573年)4月、西へと快進撃を続けていた武田信玄の軍勢は、いきなり甲斐国へと引き返します。

武田信玄が、途上で亡くなったのです。

織田信長や徳川家康は命拾いをしたわけですが、武田信玄の死は甲斐国に退くまで極秘とされ、最後尾を山県昌景の「赤備え」が守って睨みを利かせていたため、織田・徳川軍は武田軍の退却に対して手出しができませんでした。



さて、信玄の後を継いで武田氏の新当主となったのは、武田勝頼(かつより)です。

武田信玄の長男であった義信は「義信事件」によって、教育係の飯富虎昌と共に誅殺されていたので、四男である武田勝頼が当主となったのです。

武田家の当主は武田信虎、武田晴信、武田義信のように「信」の字を通字としていました。しかし、武田勝頼は当初は後継者の候補に挙がっていなかった庶子だったので、名前に「信」の字はついていません。

武田勝頼の母は側室だったのです。彼女は信濃国諏訪の領主・諏訪頼重(すわ よりしげ)の娘でした。そのため、諏訪氏の通字である「頼」の字をもらって勝頼と名乗り、諏訪頼重の代で滅びた諏訪氏の名跡を継ぐという予定もあったのです。

ところが、後継者の予定だった長兄の武田義信が誅殺され、次兄の信親(のぶちか)は盲目だったため出家しており、三男の信之(のぶゆき)は11歳で病死していたため、四男であった武田勝頼に当主のお鉢が回ってきたのです。

武田信虎、そして武田信玄は共にその名を馳せた英雄ですが、この武田勝頼もまた、祖父や父に負けず劣らず、とてつもなく剛毅に秀でた人物でした。

武田勝頼は、武田氏の当主の座を継ぐと、今度は武田信玄もまだ手を伸ばしたことがなかった、織田信長の美濃国(=岐阜県)にも攻め込みます。さらには、…



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