[歴史発想源] <精強の証左・赤備軍団篇>第八回:譜代筆頭の血統の行く末「井伊直孝」

乱世最後の戦い「大坂夏の陣」で、二人の赤鬼が火花を散らす…!

「赤備え」の活躍が終われば戦国時代が終わり、「赤備え」の存在が終われば江戸時代が終わる。戦国最強の証であった「赤備え」とは、いったい歴史にどのような存在価値を残したのでしょうか。

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戦国最強の精鋭部隊「赤備え」を率いた名将たちを描く「精強の証左・赤備軍団篇」(全8回)、最終回をどうぞ!

※副題は便宜上「井伊直政の章」となっていますが、井伊直政だけではなく飯富虎昌、山県昌景、井伊直虎、真田信繁(真田幸村)、井伊直孝など、様々な名将たちが登場します!



▼歴史発想源「精強の証左・赤備軍団篇」〜井伊直政の章〜

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【第八回】譜代筆頭の血統の行く末、井伊直孝

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■乱世の最終ラウンド、「大坂夏の陣」開幕!

ひとまず和平の約束をした徳川軍と豊臣軍の両軍ですが、その仲直りの条件は、「大阪城の外堀を埋める」ということに決まりました。

仲良くするならば、堀で防ぐ必要はない、でもやっぱり城には堀は必需品だろうから、内堀は残してあげて外堀だけ埋めるね、ということになったわけです。

ところが、ここが徳川家康のしたたかなところで、急ピッチで外堀を埋めていった後、自軍を悩ませた「真田丸」をその勢いで壊していき、さらには内堀まで埋め始めたのです。

内堀に土砂を流し込む様子を見てようやく徳川家康のしたたかさに気がついた豊臣秀頼側は、当然約束を違えている徳川家康に対して激怒し、徹底抗戦の構えを見せます。

徳川家康も喧嘩を売ってくるのを待っていて、「よし、そこまで戦いたいのならば、戦ってやろう」とばかりに、再び大阪城をぐるりと取り囲みました。

「大坂冬の陣」の翌年の慶長20年(1615年)、こうして「大坂夏の陣」が開戦します。

しかし、両軍の戦力が拮抗していた昨年の「大坂冬の陣」の時とは、状況が全く違います。

大阪城に鉄壁の防御力をもたらしていた三方向の外堀はなく、南側の前線基地であった真田丸も撤去された後とあって、大阪城は丸裸の無防備状態です。

そうなると、いくら戦上手の真田信繁といっても、作戦を立てるのも大変になってきます。



今度は徳川家康は、積極的に城攻めに取り掛かります。

前回は不覚を取った井伊直孝ですが、今回は気合十分で、「赤備え軍団」を率いて防御力の低い大阪城へと突入。

長宗我部盛親隊など、豊臣軍の主力軍をめっためたに打ち破ります。

この時の井伊直孝隊の猪突猛進ぶりはすさまじく、戦場の将兵たちは、「井伊の赤鬼」と呼ばれた父・井伊直政になぞらえ、井伊直孝のことを「井伊の赤牛」と呼びました。

井伊直孝は、父に劣らぬ豪快な活躍を見せるのです。



井伊直孝の獅子奮迅の活躍に始まり、徳川軍の数に任せた凄まじい猛攻に、数で劣る豊臣軍は次第に城内に追い詰められます。

そんな中、城内に突入する徳川軍と入れ違いに、徳川家康の本陣へと飛び出していった豊臣側の一隊がありました。…

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