前回は、アメリカの二項対立分化が最も如実に表れた中絶について書いた。そして、そんなアメリカの二項対立分化ではなくて、日本は連続性の中で物事を捉えており、そしてそれは実は最先端の可能性を秘めていると書いた。
さて、今回は連続性の中で物事を捉える日本の哲学、そしてその可能性について詳しく見ていこう。
1. 「白黒つけたがるアメリカ」と「グレーをグレーのまま受容する日本」
この「白黒つける」アメリカ文化に対して、日本には「グレーをグレーのまま受容する」土壌がある。二項対立のアメリカに対して、連続性が日本の文化を理解するうえで重要なキーワードだろう。
Reproductive Rights and Justiceの授業で、この連続性という日本のコンセプトをプレゼンテーションしたら、アメリカ人たちから喝采を浴びた。(私のプレゼンテーションはもちろん超稚拙だったから、受けた原因はプレゼンテーションのうまさでなく、中身つまり日本のコンセプトであることは明らかである。)
「私たち日本人は、Pro-Life的な「胎児は人」という考え方でも、Pro-Choice的な「胎児はモノ」という考え方にも立ちません。私たちの国・日本では胎児が人かモノかを突き詰めて考えるなんてことはしません。なぜなら、人かモノかをはっきりさせなくても、胎児が大切な存在であることは変わらないからです。私たちは二項対立的なフレームワークを選ばない、むしろ協調の中で物事を解決しようとしているのです」と話したら、アメリカ人にものすごくウケたのだ。こういうプレゼンテーションはアメリカ人の心に刺さるらしい。
特に、「輪廻転生」とか「水子供養」とか、曖昧なものを曖昧なままに美しくくるみこむ、日本のスピリチュアルな発想は、アメリカ人にとっては”beautiful”らしい。
未成年のままの妊娠など中絶は悲しいことではあるが「仕方のない」こととされるときがある。そういう文化の土壌となるのは、流産も中絶も生まれてこれなかった胎児は皆同じところへ戻っていく、そして今度は別の女性のお腹に宿って新しく生を受けるという「輪廻転生」の発想である。
次はよりよい生を生きてほしいと願うこと、それは仕方ないとはいえ、お腹の中の我が子に生を授けてやれなかった女性の悲しみ癒す手法であった。この悲しみは社会で共有され、その癒しの気持ちが「水子供養」の下地になっている。
2. 日本の連続性は最先端の発想
そして、この対立ではなくて連続性の中で捉えるという日本の発想は、最先端の発想かもしれない。
アメリカでは中絶した女性は孤立しがちである。中絶があくまで個人的な、かつ、(アメリカの伝統的価値観からすると)恥ずかしい経験であって、それを社会で共有することができないから。それに対して、水子信仰に見られるように、日本では女性の哀しみを社会で共有しようという、個人から社会へとつながる連続性があった。