先日、実家に里帰りをして、しばらくぶりに母に会ってきました。母はけっこうなお年になるわけですが、まだまだ元気でうれしい限りです。好奇心旺盛で、トライしてみたいものはiPhoneとTwitterだとか。
結城がiPhoneでTwitterを実演して見せると、母は興味深く眺めていました。そして(おそらく自分の中に心的モデルを構築するために)TwitterのTL(タイムライン)の成り立ちについてあれこれ質問してきました。なかなか熱心。ほんとうに好奇心旺盛です。
そんな母に、毎週書いている結城メルマガの話をして、以前そこに書いた「父のこと」という文章を見せました。中学校の教師であった父がどんなふうに教え、どんなふうに生活していたか。
母は、私が書いた父の思い出(母にとっては夫の思い出)を懐かしそうに読み、とても喜んでいました。
「そうだったね。書いてくれてありがとう」
と母に感謝されて、私もうれしくなりました。あの文章を書いて(そして読んでもらって)よかった。そんなふうにじんわり思いました。
結城が食卓でノートパソコンを開き、仕事の文章を書いたり、メールのやりとりをしているのを見て、母は、
「どこにいても仕事ってできるものなんだね」
と感心していました。確かにそうですね。
結城のような「文章を書くこと」が仕事で、しかも、特定の場所に行かなくてもいいし、人と会わなくてもいいということになると、ほんとうに、時間や場所の制約は受けません。
とはいうものの、「仕事がしやすい場所」あるいは「仕事がしにくい場所」というものはやっぱりあります。いつもと同じ時間、いつもと同じ場所で仕事をした方がスッと仕事に入り込めるように思います(結城の場合には)。
そういう意味で、定時に、会社や学校という決まった場所に出かけていって仕事や勉強をするのは、とても理にかなっていると思います。
実家に帰ってお茶を飲んでいると、母はよく、
「何だかずっと一緒にいたみたいだねえ」
と、しみじみ言います。
何ヶ月かぶりに帰省して、一泊して帰京するスケジュール。
あわただしい時間といえばそうなんですけれど、一緒にお茶を飲んで雑談をしているだけで、「ずっと一緒にいたみたい」という気分になる。親子ってそんなものなのかな。
思い返してみると、母は私が実家に帰るたびにそういいます。
「何だかずっと一緒にいたみたいだねえ」
そして私も「そうだねえ」と答えるのです。いつも、同じ繰り返し。
そうそう、繰り返しといえば、実家に帰ると、「自分が高校時代に使っていた本棚」をいつも眺めます。
その本棚はまるでタイムマシンのようです。古いブルーバックス、文庫本、受験参考書、PC-9801のコンピュータの本などが並んでいて、私自身を過去に引き戻します。
本棚に並んでいた難しい数学の本をぱらぱらめくっては、
「こんな本、高校時代には絶対理解してなかったぞ」
と苦笑することもよくあります。
役に立つのかどうか、理解できるかどうかなんてそっちのけ。純粋に好奇心で買った本がたくさん残っているんです。
以前のことですが、帰省したとき『数III方式ガロアの理論』という本を自分の本棚で見つけました。ちょうど『数学ガール/ガロア理論』を書いていたころのことです。
◆『数III方式ガロアの理論 ― アイデアの変遷を追って』(矢ケ部 巌)
確かに高校時代にこの本を買ったのは覚えています。「数III方式」というので、自分にも読めそうかなと思ったんですね。実際には高校時代の自分には歯が立たず(がんばればわかりそうだったんですが、式変形が多くて根気が続かず)挫折したのを思い出しました。
実はこの「数III方式」の本は『数学ガール/ガロア理論』を書くときにあちこち参考になったので、参考文献にも含めました。高校時代に自分が買った本を、30年後にもなって、自分が書く本の参考文献に使うとは思いもよらないことでした。
でも、長い時間を飛び越えてつながったようで、ちょっぴり愉快です。
私の本棚の中には、ロシア語やラテン語の教科書もありました。自分の雑多な興味にあきれてしまいます。もちろん内容はさっぱり覚えていません。単に買っただけでおしまい。
とはいえ、そういう挑戦――というか好奇心は必要なものなのかもしれません。大人になってしまうと「仕事に役立つ」や「生活に便利」ということの最適化がかなり効くようになってしまい、
「役に立ちそうもないけれど、おもしろそう」
にどっぷり浸かれなくなるみたい。
ちょうどいま、これからの仕事を考えているところなので、そのような好奇心をもっと盛り上げて、なんというか、自分をうまくゆさぶっていきたいと考えています。
はっ!
私は、母ゆずりの好奇心を持っているのかも! そうだといいな。おもしろいことにもっと挑戦していかなくてはね!
(結城メルマガVol.028より)