HMDがダメだといわれた時代 - CABIN誕生 [世界VR史]



 著者の研究歴の中で、最も思い出に残るものの一つがCABINである。これは、1997年に、東大の農学部キャンパス、IML棟に建設された当時としては世界最大のVR装置である。(今はすでに解体されて存在しない。)HMDとは違うVRという意味で、記録しておきたい。

 今でこそVRブームの牽引車となっている感のあるHMDであるが、「HMDはダメだ」と言われた時代もあった。1990年代にはいり、VRを実際に利用しようとすると、当時のクオリティでは話にならなかったのである。そこで代替手段として目をつけられたのがプロジェクタである。プロジェクタであれば、すでに2K(ハイビジョンクオリティ)の解像度を有するものが存在し、数メートル程度の大画面ならば高精細の立体映像をつくり出すことが出来た。

 プロジェクタベースのVR体験装置の嚆矢は、1992年に米国のイリノイ大学が発表したCAVEである。約3メートル四方のスクリーンを床面、壁3面に配し、立体映像に囲まれた部屋を作り上げた。こういう方式のVRはIPT(Immersive Projection Technology)と呼ばれた。ユーザの頭には磁気式の位置センサ(ポヒマスと呼ばれるもので、HMDにおいても使われている。)がとりつけられ、ユーザの視点から見た映像が、それぞれのスクリーンに描画されるようになっていた。IPTは、プラネタリウムのような全天周ディスプレイであるには違いないが、その体験のレベルにおいてまったく違ったものであった。視点を自由にできるというインタラクティブ性こそがIPTの特徴なのである。

 わが国でも、独自のIPTを作ろうという気運が盛り上がりを見せはじめ、その波に乗って著者が作ったのが、CABINであった。CAVEとの違いは、床面に加えて天井にもスクリーンを配し、面数が5面に増加したことである。たった1面の増加だけ?といぶかる読者もいるかも知れないが、その効果は大きかった。見回したときに表示された仮想の物体がスクリーンの端部から外れてしまう確率が劇的に低下するのである。我々が3次元の物体を目前にしたとき、頭を動かして見回そうとするだろう。その時、通常のPC画面のような小さい画面では、表示物体が画面の外に出てしまうのである。

 つまり3D表示には広い視野角が必要で、このことに気づかなかったのが、数年前の3Dブームである。CABINでは、その空間内部に表示された3D物体を周囲から自由に眺めまわせたのである。自分の周りのパノラマ映像を単に眺め回すパノラマ映像体験とも決定的に異なる体験がそこに含まれている。HMDが広く社会に認知された現在、自明なことではあるのだが。

 スクリーンの5面化にはいろいろな技術的困難があった。床面と天井面を両方とも背面投影にする必要があり、床面を透明部材で製作しなければならなかったからである。天井のないCAVEの床面は前面投影である。結局のところ、CABINの床面は15ミリ厚の3メートル四方の強化ガラス2枚合わせで設計されたが、強化ガラスの上に人を立たせるというのはやはり不安であった。(実はCABINが解体されて、一番喜んだのは、ガラスが割れる心配から救われた著者だったというのはここだけの話である。)

 ともあれ、約270度の高精細度視野が確保できるのだから、5面化の効果は絶大で、それまではVRなど相手にもしなかったような産業の人々が、VRという技術を意識し始めた。たとえば、それまではVRなど口にもしなかった自動車会社の人々が、CABINを見てからいきなり態度が変わったという記憶がある。

 VRが技術的に一人前扱いされるようになってきたのがこのころである。1996年にはVR学会が組織され、相前後して文部省の重点領域研究、MVLやSVRなどの総務省プロジェクト、MRシステム研などの通産省プロジェクトなど、さまざまな大型研究プロジェクトがスタートした。CABINは建設に数億円を要したが、それを超える研究費を集めたわけだから、まあ東大に貢献した設備ではないかと思う。CABINの周りにも優秀な学生が集まるようになり、これまで計算に入れれば、その効果は計り知れない。予算が研究の質を上げるというのも、あながち嘘ではないと思ったものだった。

 実はこのころ、VRという技術に注目した数少ない政治家がいた。その政治家とは岐阜県の梶原知事なのであるが、この話はまた稿を改めて記したいと思う。