富士通コンピュータの生みの親は、遅刻欠勤、常習の天才 企業が変わるとき、富士通(2)  ノンフィクション作家・立石泰則の「企業は人なり」 第36号



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企業探訪 企業が変わるとき、富士通(2)

昭和25年頃、富士通社内では進出すべき新しい事業分野として「マイクロ波多重通信(無線)」と「コンピュータ」、「テレビジョン」の三つの開発に取り組むべきだという意見が技術陣から上申され、役員会で検討されることなった。

しかし結論から先にいえば、実行されることはなかった。

一言で言うなら、時期尚早だったのである。戦後まもない日本で、しかも富士通も会社としての体力のない時代だったのである。

このとき、コンピュータの開発、コンピュータ事業への進出を強く主張したのが、のちに八代社長になる技術幹部の小林大祐だった。

小林にとって幸運だったのは、当時の富士通にはコンピュータではないが、計算機の研究開発を手がける一定の条件が整っていたことである。

富士通では、固定電話以外にも電話交換機の開発製造も行っていた。その電話交換機にはリレー(継電器)と呼ばれる素子が使われていた。一方、当時の電気式計算機にはリレー式計算機が開発されていた。

同じリレーとはいえ、

電話交換機と計算機で使われているものはまったく同じではない。

しかし小林たちは、同じリレーである以上は改良すれば十分に利用できると考え、リレー式計算機の開発に着手するのである。

そしてもうひとつの人的条件として、

コンピュータの研究開発を託せる適任者が富士通社内にいたことだ。

その人物とは、のちに「富士通コンピュータの生みの親」と呼ばれる池田敏雄、その人である。

池田は、小林が富士通のコンピュータ開発を

一任するほど絶大な信頼を寄せたエンジニアだった。

池田敏雄は終戦の翌昭和21年9月に東京工業大学電気工学科を卒業したのち、富士通信機器製造に入社している。当時は戦後の混乱期で深刻な就職難に見舞われていた。大卒といえども例外ではなく、勤務先が見つかれば、それだけで満足しなければならない時代であった。

池田は当初、技術部交換機課に配属されたものの、生産現場には向かないという上司の判断で2年目から機械研究室に異動になっている。機械研究室とは、通信機器分野全体の研究開発を行う部門で、室長は小林大祐だった。このときに、池田は上司の小林から見込まれるのである。

それゆえ、小林が新設された開発課の初代課長に就任すると、池田も同時に開発課へ異動になる。

開発課のミッションは、新規事業の開拓である。ここで小林は、池田をリレー式計算機のプロジェクトの責任者に指名し、そのすべてを託したのである。

当面の目標は、東京証券取引所が求める新しい計算機の競争入札に応募することだった。そのためには、東証の求める機能に応じたリレー式計算機をはやく完成させなければならなかった。

東証が指定した期限は昭和28年3月だった。しかし池田たちが開発に着手するのは前年の9月だから、わずか半年しか開発期間は与えられていなかったことになる…。

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