連続講座「飯沢耕太郎と写真集を読む」 「幻の写真家」飯田幸次郎を語る

2018年2月24日に写真集食堂めぐたまにて開催した「飯沢耕太郎と写真集を読む」。今回のテーマは、「『幻の写真家』飯田幸次郎を語る」でした。

戦前の1920〜30年代、東京・浅草でそば屋を営みながら活動を続けていた写真家、飯田幸次郎。野島康三、中山岩太、木村伊兵衛によって刊行された『光画』に、<看板風景>、<屑車で眠る少年>など、素晴らしい作品を残しますが、その後、彼の足跡はぷっつりと途絶えてしまいます。この「幻の写真家」飯田幸次郎の足跡をたどったのが『写真 飯田幸次郎』です。今回は、『写真 飯田幸次郎』(2017年)の刊行に際して、飯田幸次郎写真集刊行委員会のメンバーとともに、写真集出版の経緯、飯田幸次郎の日本写真史における位置づけなどを語り合います。

ウェブマガジンmineでは、トークイベントの内容をたっぷりご紹介していますので、ぜひご覧ください。

(※対談は有料版となっておりますが、冒頭のみ無料でお読みいただけます)

【目次】

◆幻の写真家、飯田幸次郎

◆時代の狭間で花開いた「新興写真」

◆飯田幸次郎の足跡をたどる、刊行までの道のり

◆庶民の人々への想い入れ ―看板風景、屑車で眠る少年、群衆のモンタージュ

◆飯田幸次郎に対する評価

◆晩年の飯田幸次郎、木村伊兵衛との関係性

◆オンデマンド写真集の可能性



「飯沢耕太郎と写真集を読む」はほぼ毎月、写真集食堂めぐたまで開催されています。(これまでの講座の様子はこちら

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 (2018年2月24日開催・写真/文 館野 帆乃花)

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◆ 幻の写真家、飯田幸次郎

飯沢: 今回は『写真 飯田幸次郎』という写真集ができたので、そのお披露目をかねて写真家・飯田幸次郎という存在についてお話していきたいと考えております。そこで今日は、飯田幸次郎写真集刊行委員会のメンバーに集まっていただきました。飯田幸次郎のお孫さんでアーティストのHAL_さん(飯田ハルオさん)、写真史家の金子隆一さん、文化史研究家の中村惠一さん、この写真集のオンデマンド印刷を実現してくださった写真家の川口和之さん、そして私の5人が刊行委員会のメンバーになります。写真集出版の経緯、日本写真史における飯田幸次郎の位置づけなどを語り合っていきましょう。

左から川口・金子・飯沢・中村・HAL_



みなさんは飯田幸次郎という人を知っていました? 僕ら写真研究者にとっては有名ですが、一般的にはほとんど知られていない写真家だと思います。簡単にお話すると、飯田幸次郎は戦前の1920〜30年代に「新興写真」と呼ばれる写真表現が登場した頃、この時代を代表する『光画』という写真雑誌で野島康三、中山岩太、木村伊兵衛と並んで写真を発表していた写真家です。よく「幻の写真家」という形容詞を付けて語られることが多く、『光画』のあと、飯田幸次郎の足跡はぷっつりと途絶えてしまいます。浅草で飯田屋というおそば屋さんの店主をしながら、写真家としての活動を続けていた人なんですが、そのおそば屋さんも引き払ってしまっていて、第二次世界大戦を境に写真の世界から姿を消してしまいます。

<屑車で眠る少年>(『光画』1933年11月)

『写真 飯田幸次郎』より



名作、<屑車で眠る少年>。『光画』では<・・・・>(無題)として発表されます。これは衝撃的な写真じゃないかと思います。屑屋の車の中で子どもが寝ているんだけど、ここに時代の空気感がにじみ出ていますよね。子どもが働かないといけないほど貧しい時代、くたびれて寝てしまった少年。なんとなくこの少年が眠っているんじゃなくて、死んでいるように見えるような、印象的な写真です。飯田幸次郎は18号まで刊行された『光画』に全部で11点と、かなりたくさんの作品を発表しています。これは野島康三、中山岩太、木村伊兵衛、つまり『光画』の同人たちに次ぐ数なんですね。そば屋の店主が同人なみの扱いを受けていたということです。しかし、飯田幸次郎に関する資料が『光画』に掲載された写真以外にはほとんどなかったので、私が1980年代の後半に『写真に帰れ―『光画』の時代』(1988年)という本に出したときには「幻の写真家 飯田幸次郎」と書くしかなく、詳しく取り上げることができませんでした。

飯沢著『写真に帰れ―『光画』の時代』(1988年)



それからずっと気になっていたのですが、中村惠一さんが飯田幸次郎のお孫さんを見つけ出したことから、飯田幸次郎の足跡が徐々に明らかになっていきました。お孫さんがいるので著作権の問題もクリアでき、今回の刊行に至ったというのがダイジェストになります。

どのようにしてお孫さんのHAL_さんを見つけ出したのかは後ほど、中村さんからお話いただくとして、まずは飯田幸次郎が活躍した時代の歴史的な背景を解説していこうと思います。

『写真 飯田幸次郎』(2017年)





◆時代の狭間で花開いた「新興写真」

飯沢: 飯田幸次郎が活動をしていた、1930年代、昭和のはじめというのは、日本の写真表現が大きく変わっていった時期でありました。明治、大正にかけては「芸術写真」、「ピクトリアリズム」といわれる絵画的な表現が流行していまして、多くの写真家、特に表現意欲の強いアマチュア写真家はみんな芸術写真を撮っていました。これはこれでレベルが高く、素晴らしい作品が多く残っているのですが、1923年に関東大震災が起こり、東京の風景が大きく変わって、地下鉄が走ったり、自動車が走ったり、鉄筋コンクリートのビルができたりしていくなかで「芸術写真」がなんとなく古くさい表現になっていきます。

その頃、ドイツやアメリカでは、いわゆる「モダニズム写真」、「近代写真」と呼ばれる写真表現が出てきていました。その流れが黒船のごとく日本にやってきたのが、1931年に開催された、「ドイツ国際移動写真展」です。もともとは1929年にドイツのシュトゥットガルトで「映画と写真 国際展」という大展覧会が開かれて、その中の写真部門だけを朝日新聞社が持ってきたものになります。芸術写真はどちらかというとピントが甘くて、ふわっとしたソフトフォーカスの感じの写真が多いですが、「ドイツ国際移動写真展」で展示されていたのは、シャープでピントがしっかりあった、カメラの機械的な眼で撮影された写真でした。1000点以上の写真が日本にやってきて、「芸術写真」とは異なる、新しい世界に対応するような写真のあり方を目の当たりにするわけですから、写真家たちの間で大ショックが巻き起こります。これをきっかけにして関西も関東も「新興写真」と呼ばれる、それまでの芸術写真のあり方を凌駕していく表現へと変わっていきます。1930年前後というのは、その変わり目でした。

『光画』オリジナル版など



そういった事情のなかで出てきたのが写真同人雑誌の『光画』です。1932年に創刊され、1933年まで全部で18冊刊行、わずか2年足らずで終わってしまいます。『光画』の主宰者は野島康三という、明治時代から活躍していた芸術写真の騎手の一人で、ポートレートやヌード写真でとても良い仕事をした写真家です。そして同人に、中山岩太と木村伊兵衛がいます。中山岩太は、関西の芦屋カメラ俱楽部で活動した写真家です。東京美術学校、今の東京藝術大学には写真学科があった時代がありました。といっても、「臨時写真科」で、10年くらいしか続かなかったのですが、中山岩太はそこの第一回卒業生でした。卒業してからニューヨークに渡って写真館を開き、そのあとパリに渡って帰ってきたという華麗な経歴の持ち主で、非常に耽美的なモンタージュ写真が有名です。それから、木村伊兵衛。木村伊兵衛賞という賞がありますから名前は聞いたことあるのではないでしょうか。彼はまだ若い頃、『光画』のメンバーでした。木村伊兵衛は、後にライカの小型カメラによるスナップショットで戦前から戦後にかけて一つの時代を作りあげる写真家です。



【木村伊兵衛についてもっと詳しく】

>>連続講座「飯沢耕太郎と写真集を読む」 木村伊兵衛と土門拳



『光画』のメンバーでもう一人重要な人物がいまして、それが、創刊号に「写真に帰れ」という、新興写真というモダニズム的な写真に対応する、素晴らしいマニュフェストのような文章を書いた伊奈信男です。彼は2号目から同人に加わります。伊奈信男は東京大学の美学科出身の新進気鋭の写真評論、批評、歴史家でした。もともとは美術史が専門だったのですが、この頃から写真に興味を持って、写真評論家になっていきます。彼らが中心になって作った『光画』で、そば屋の店主のアマチュアカメラマンでありながら、創刊号から作品が掲載されたのが飯田幸次郎という人です。

この時代というのは面白い時代だと思います。狭間の時代なんですよね。明治・大正という文明が発展していった時代があって、1930年代の後半になると戦争が始まりますから、意欲的な活動や写真のあり方が根こそぎやられてしまうわけでしょ。大正時代までは芸術写真が主流で、戦争が始まって自由な創作活動が全くできなくなってくる、ちょうど間のところ。そこに面白い表現がわっと花開いてきたと。それを非常に敏感に鋭敏に受け止めて作品化していった一人が飯田幸次郎だと考えて良いと思います。



◆飯田幸次郎の足跡をたどる、刊行までの道のり

飯沢: それではここからはこの『写真 飯田幸次郎』刊行までの経緯をお話していこうと思います。ここで隣にいらっしゃる中村惠一さんが登場します。実は最初のきっかけは、このイベントで「光画を読む」という回をやったことから始まっているんですよね。あれはいつ頃のイベントだったでしょうか?

中村: 2014年の5月だった記憶があります。私はイベントに来ていたお客さんでした。



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