声の教育社vs東京学参:慶應義塾湘南藤沢中等部2014年(H26)実施 入試過去問分析:国語/物語文

知る人ぞ知る、中学入試過去問集の「差」について。専門出版社である「声の教育社」と「東京学参」とで、解答があまりに食い違っている問題。

2014年(H26)2月実施、慶應義塾湘南藤沢中等部の国語入試問題。

物語文は、「また次の春へ―おまじない―」より。『まゆみのマーチ』(重松清)所収。設問は8つ。

問3 抜き出し設問。12字。

B この町で暮らしたことの証(声の教育社)

B 私のことを覚えているひと(東京学参)



問5 文中の空欄2~4を埋める選択式設問(2,3,4の順に)。

ウアイ(声の教育社)

アウイ(東京学参)



問6 空欄5に入る表現を文中から5字で抜き出しなさい。

「山の手」(声の教育社)

おまじない(東京学参)



問8 空欄X,Yに入る表現を考えて、それぞれ5字以内で答えなさい。

X…みんな Y…また次の春(声の教育社)

X…相手の名前 Y…同じ言葉(東京学参)

説明文も同様に食い違いがあったが省略。

以下、詳述(この記事はツイートのセルフまとめです/問題文等がないと若干分かりにくい点、ご容赦ください)。

本気で過去問対策をしたい受験生は、最低でも第一志望校については、「声の教育社」「みくに出版(銀本)」「東京学参」の3種類を揃えたい。

これは、どうみても声の教育社が正しい:

問3 抜き出し設問。12字。

B この町で暮らしたことの証(声の教育社)

B 私のことを覚えているひと(東京学参)

これも、声の教育社が正しい。これは本文の穴埋めだから、最低でも東京学参は原典を確認すべきだった:

問5 文中の空欄2~4を埋める選択式設問(2,3,4の順に)。

ウアイ(声の教育社)

アウイ(東京学参)

ちなみに、問5の選択肢はこう。

ア 理由の分からない不安になってしまった

イ 急に胸が重くなった

ウ 急に不安になった

これは、まあ、問題が意地悪い(笑)。論理的に正解を出せるが、それらの論理的思考力を問うのなら、もうちょっと別の出題形式があったはずだ。

「手紙を壁に掛けたあと、( 2 )」~このあと約10行~「その根拠のない自信は、いざ手紙を壁に掛けたあとは、クルッと裏返ってしまったかのように、( 3 )のだ」

まず(3)を埋める。クルッと裏返ったと言っているから、「根拠のない自信」が「理由のない不安」になったということで、ア。

で、(2)を埋める。意味としては「胸が重くなった」ではダメとは言い切れないが、(3)の前でも(2)の前でも、どちらも「手紙を壁に掛けたあと」とあるから、アと同じ「不安」を選ぶ。ちなみに、(3)までの約10行は(2)の具体的説明(同等関係)になっている。そう考えると答えは1つ。

(4)は、イしか残らない。なにか手伝えることはないだろうか、と前向きで「軽い」感じだったのが、急に「重く」なった場面。

東京学参の答えを作った人は、「理由の分からない不安」と「不安」との違いを判別できなかった。慶應の作問者が、「クルッと裏返った」をヒントにすれば答えられると考えて作問したことに気づけなかったわけだ。一方、声の教育社はそこに気づいたかと言えば微妙。原典を見て答えを作っただけ、かも。

お。なんと。今気づいたのだが、東京学参の解説にこんなことが書いてあった。「クルッと裏返った」とあるから「急」なんだ、だと。なるほど、「クルッと」を重視したのね。でも、作問者はどうみても「裏返った」=逆転した、という読みを重視しているはずだよ。重松清さんも同じ考えで書いたはず。

確信した上でのミスだったのか……。

いや、「クルッと」だけを見ても分かるよ……。「クルッと」は速度を伝える言葉なのか。位置関係の変化を伝える言葉なのか。当然、後者が優位だろうな。

これも明確に、声の教育社が正しい:

問6 空欄5に入る表現を文中から5字で抜き出しなさい。

「山の手」(声の教育社)

おまじない(東京学参)

原典も「山の手」が入っている。東京学参、ちゃんと原典をチェックしてほしい。文章の空欄穴埋め問題で原典を参照せずに答えを作るその勇気…。

もちろん、原典に空欄を作ったとたん、論理的に考えて別の言葉が入ることになってしまうということもありうる。しかし、重松清さんにおいて、そんなことはほとんどあり得ない。そもそも、小説家というのは、下手な評論家よりもよっぽど、言葉を選びに選んで文章を書いている。小説家のほうが論理的。

とはいえ、「」を入れて5字という時点でキタナイ設問だ。それに、ここを空欄にすること自体、あまり賢い問題ではない。ただし、慶應湘南藤沢の先生は、相応の苦労の末にこの問いを作ったんだろうなという気はする。

「夕方、お別れをするつもりで、なつかしい町に戻った。最後の最後に町を見渡しておこうと思って、( 5 )の公園に向かった。昔は、自然公園の名前どおり…略…いたが、いまはその林はそっくり住宅地に変わってしまい…略…名前も児童公園になっていた」

で、その部分よりずーっと前に、こう書いてある。「「下町」の子どもたちは…略…「山の手」を訪ねては、湾を一望できる自然公園で遊んでいたものだった。だが、いまでは「山の手」もすっかり開けた」云々(以後も下町と山の手を対比したテクストがかなり続く)。

そんなわけで、(5)が「山の手」になる論理はある。でも、「~~~の公園」というとき、東京学参のように「おまじないの公園」などと答えたくなる気持ちも分かる(笑)。「の」という1字が持つ多様な働きを無視して直前を空欄にしてしまった慶應湘南藤沢の先生は、正解率の低さに面食らっただろう。

しかしそれにしても、「おまじない」のことをほとんど忘れていた主人公が、その公園に来て初めてくっきりと「おまじない」のことを思い出すという展開の中で、主人公が意識的に「おまじないの公園に向かった」ように読める描写をするのは明らかにストーリーを無視している。東京学参、甘すぎるよ。

これも明確に、声の教育社が正しい:

問8 空欄X,Yに入る表現を考えて、それぞれ5字以内で答えなさい。

X…みんな Y…また次の春(声の教育社)

X…相手の名前 Y…同じ言葉(東京学参)

でも、例によって、声の教育社は原典のコピーである(笑)。その意味では、努力不足。

それにしても、どんだけ穴埋め作ってんのよ慶應湘南藤沢中等部。物語で穴埋め作るという発想自体、疑問なんだよな。そもそも。

前の方に出てくる明確な説明から考えて、Xには「会いたい人の名前」が入り、Yには「いつ会いたいか」が入る。ここは、「みんな」に、「また次の春」に会いたいということを口にしながら、ブランコを漕いでいる場面。XとYは「」でくくられている。場面の描写も具体的。だから、セリフと読むべき。

なのに、東京学参は、セリフではなく解説になっている。あまりに貧相。なにせ、ストーリーの最後だからね、これ。

「おまじないの言葉は、「X」を十回。つづけて、「Y」を十回。膝を軽く曲げて、伸ばし、その反動を使って漕いでいった。なつかしい町がゆらゆらと揺れ始めた」。ここで物語が終わる。

「おまじないの言葉は、「みんな」を十回。つづけて、「また次の春」を十回。膝を軽く曲げて、伸ばし、その反動を使って漕いでいった。なつかしい町がゆらゆらと揺れ始めた」。これが原典。

「おまじないの言葉は、「相手の名前」を十回。つづけて、「同じ言葉」を十回。膝を軽く曲げて、伸ばし、その反動を使って漕いでいった。なつかしい町がゆらゆらと揺れ始めた」。これが東京学参。重松清が、こんな文章で物語を締めるとでも思っているのだろうか。しっかりしろ、東京学参。というより…

というより、物語文読解の最終設問――自由度を高め、論理的思考力とともに発想力を問う設問――において、慶應湘南藤沢の先生が具体的セリフを書かせたいのか抽象的解説を書かせたいのか、そのどちらの意図で作った設問なのかを考えるくらいのことを、してほしいよね。ほんとに。

今回は、「声の教育社4-0東京学参」で、声の教育社の圧勝(というか東京学参の惨敗)でした。ただし、この一件だけで優劣の総合的判断はできません。あらゆる中学のあらゆる設問を詳細に見ないと、どちらがよい出版社なのかまでは断言できません。算数も理科も社会もあるし。あとは、みなさんのご判断にお任せします。

あ、ちなみに。この原典『まゆみのマーチ』(新潮文庫)を私は去年、全生徒に配付し、実際にこの文章を使って授業をしたんです。そのときの設問はすべてオリジナルです。念のため。 → その詳細はこちら