散歩しながらお金をもらう方法/自己責任論は悪なのか?~午堂登紀雄の「フリーキャピタリスト入門」

自己責任論は悪なのか?

前々回、「貧困の連鎖の原因は親の思考格差にある」という話を書いたところ、まぐまぐのマネーボイスにも掲載されたこともあり、多方面から反響がありました。

あら、アクセスランキングでも上位ですね。。

それはともかく、異論反論もありましたし、読者の皆さまも違和感を感じた人もいるかもしれませんので、捕捉したいと思います。

「親自身が変わらなければならない」という主張に対し、「自己責任ばかり言うのは良くない」「社会の仕組みが悪いせいだ」という人がいます。もちろん、何を言おうとそれは本人の自由です。

では、責任の所在を社会という漠然としたものに転嫁することで、何かうれしいことが起こるでしょうか。自分の収入や子どもの未来の収入が改善するでしょうか。

政治が悪いとか、自分ではない誰かのせいにすれば、自分が悪いわけではない、自分は無能ではないと自尊心は維持できます。

「日本は未来に希望が持てない国」「社会が悪い」などと他者のせいにすれば、自分が努力をしなくてもいい言い訳ができ、安心できる。

しかし、誰か他人のせいで自分が不幸なのだとしたら、その誰かに振り回され続けることを意味ます。その誰かがいないと生きていけない、あるいはその誰かに変えてもらわなければ満足できる人生にできないとしたら、これは非常に不安定な生き方ではないでしょうか。

野球にしても、うまくボールを打てなかったら、打ち方を変えるなど工夫します。同じ打ち方を続けて打てるようになりたいというのは無茶な話でしょう。

これと同様に、社会のせいにして同じ生活を続けて、それで違う結果を求めるというのは、まったく整合性がないことに気が付きます。

あるいは「努力する気持ちを削ぐ、やる気を見いだせない今の社会に問題がある」という人もいます。

しかし、たとえば同じ試験を受けて不合格になったとき、「くっそー!次は絶対受かってやる!」と発奮してさらに努力する人もいれば、「自分にはダメだ」とがっくり挫折する人もいます。

ではこうした違いも、社会の仕組みや政策がおかしいからもたらされるのでしょうか。

「個人の努力だけではない」という人がいます。

では、生まれつき手足がない障がい者でも、文章を書いたり講演をしたり、人生を楽しんでいる人がいる一方、五体満足で生まれていながら、自分の境遇を呪い不平不満を言っている人がいるのはなぜか。

こうした違いも、何か社会の仕組みや諸制度に問題があるというのでしょうか。

そしてそういう話をすると「手足がなくても活躍できている人は特殊な例だ」などという人が出てきます。それなら、自分がその特殊な例になるよう努力すればいいだけのはず。

確かに芸能人や政治家の2世など生まれつき恵まれている人もいますが、ほとんどの人は「ただのフツーの人」から始まっているのですから。

すると「お前だから言えるんだろう」と言われそうですが、私も大学を卒業したとき就職できずフリーターでしたし、最初に就職した会計事務所も1年でクビ同然で辞めたという、平均以下の存在でした。独立起業してからも、会社を2つ潰しています。

親の経済格差が子どもの教育格差を生み、貧困が連鎖・固定化するというのは、社会のせいでも政治のせいでもない。大学に進学させればハッピーになるわけでもない。

貧困の連鎖を本気で止めたいのなら、まず親(本人)が変わろうというのは、つまりそういうことなのです。

もちろん、孤児であったり早くに親を亡くしたり、虐待などで心の傷を負っていたり、ケガや病気をしたり、自分とは関係のないところで発生した様々な事情によって、ままならない人生に陥ってしまう人はいます。そうした人を支援することまで否定しているわけではありません。

そういった特別の事情がないのに、貧困の連鎖を社会や政治や他人のせいにする人は、自分が貧困から抜け出しさらに自分の子どもを貧困にさせないためにどうすればいいのかわからないし、考えるのも面倒くさい、努力するのはもっと面倒くさいという、怠惰な人間なのでしょう。

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