南伊豆の漁師鍋「いけんだ煮味噌」(静岡県下田市)
旅行雑誌の記者という仕事に就いて以来、伊豆半島のエリアに限ってみれば、仕事で一番足繁く通ったのは、南伊豆エリアである。特に理由はないのだが、雑誌社にいる時も、独立して以降も、伊豆はあちこち出かけたけれど、どうも仕事ということになると、やっぱり南伊豆が多い。その玄関口は下田市だ。
下田の名物と言えば、普通ならキンメダイにトドメを刺す。下田港に揚がる魚の約8割がキンメダイだそうな。しかし、今回はあえてキンメ料理ではないものを紹介したい。
それは「いけんだ煮味噌」という変わった名の料理である。下田市内の須崎周辺が発祥とされる漁師料理である。「どんな味噌?」と思うかもしれないが、これは味噌の種類ではなくて、実は“鍋料理”である。
この不思議な料理名は、漁を終えた漁師たちが、下田爪木崎の「池の段」という浜で、売り物にならない魚介類をごった煮にして味噌を溶き、これを味わって体を温めたことに由来する。「いけのだんにみそ」が「いけんだにみそ」になったというわけだ。したがって、この料理を地元漁師の古老などは、単に「煮味噌」と呼んでいる。
観光客向けの店などでは、この鍋に伊勢海老が入ることもある。だが、伊勢海老は漁師にとって最大の売り物だったから、“本物の煮味噌”には入らないのが正しい。サザエや金目鯛のブツ切りを入れる店もある。観光客向けだから仕方がないが、やはり生活感たっぷりの正統派の方が郷土料理らしい。
僕はその本物の「いけんだ煮味噌」を須崎の民宿で食べた。伊勢海老の刺し網にかかった“外道”のショウジンガニ、地元で「タカッパ」と呼ぶタカノハダイのブツ切り、シッタカ、カメノテ、野菜、海藻など、具は盛りだくさん。
ショウジンガニは、須崎ではワタリガニと呼ぶらしい。房総では「イソッピ」と呼び、味噌が濃厚で内子が美味。甲羅の幅7センチほどの赤い小さなカニだ。こいつから、コクのある素晴らしい出汁が出る。これが入っていないと、この漁師鍋も台無しである。
一方、タカッパは磯臭くて、見た目はうまそうなのだが、正直、味はイマイチ。だが、これまた売り物にならないものが入っているところに、この鍋料理の存在意義がある。
カニはそのまま、タカッパはブツ切りにして、大根や白菜、ニンジン、ヒジキやワカメなどとともに煮込んで地味噌を溶く。黄土色をしたカニ味噌のアクが出てきて、とてつもなくうまそうな匂いが漂ってくる。グツグツという音が、期待感をふつふつ高めてくれる。
まずはスープを椀にとって飲む。こってりとした芳醇な味わいが口の中を駆け巡る。磯の香りが鼻に抜け、潮風が胃の中まで吹き抜けるかのようだ。その磯の香りを、野菜から出る甘みが優しく包み込む。出汁を吸い込んだ野菜も美味。そしてカニがまたうまい。
小さなカニの甲羅を剥がす。濃厚なカニ味噌をすすり、甲羅に熱燗を注ぐ。呑兵衛には堪えられない。身はガニをとってむしゃぶりつく。足は関節の真ん中あたりでポキンと折ると、するりと身が抜ける。小さな体に旨味が凝縮した、淡白だが野趣満点の味わいだ。
料理撮影後、一人で鍋をつついて飲んでいたら、民宿のジイさんが顔を出した。
「カニも魚も、オレと婆さんが海に出て獲った。野菜も婆さんが裏の畑で作ったものだ」
86歳になるという民宿のジイさんは、そう言って胸を張った。こういう話をするとき、年寄りはとてもいい顔になる。年寄りが最前線で働いている町は、昔からの生活が息づいている町だ。いけんだ煮味噌は、漁師町の古来の生活を、そのまま味わえるものだった。
写真は下田市の飲食店「ごろさや」のいけんだ煮味噌。
TEL:0558-23-5638