書き手の熱心さが、読み手を置いてけぼりにしてしまうときもある(結城浩「書くという生活」)

こんにちは、結城浩です。

いつも結城浩の文章をお読みくださり、ありがとうございます。

最近とくに思うのですが、Web記事や結城メルマガを書いているときって、親しい友人とおしゃべりをしているような気持ちになります。あるいは気心の知れた人に手紙を書いているような気持ちでもいいです。何だかとってもリラックスして、

 「最近、こんなこと考えてるんですよね」

とか、

 「こないだ、こういうことがあって」

なんて言っているみたい。だから文章を書くのはとても楽しいんです。

結城は基本的に毎日執筆をしています。日曜日だけは教会に行きますが、あとは基本的に毎日文章を書いています。もちろんときどきお出かけしたり、用事が入ったりすることもありますけれど。それから祝日は子供の学校が休みになるので、仕事の時間を多少調整することも。まあ、でも、基本的に毎日執筆。

結城は規則正しい生活というのが好きで、ほぼ毎朝同じ時刻に起きて、ほぼ同じことをやりますね。聖書を読んで、ささっと家の中を片付けて、家内の朝食の支度の前準備をして、ひげをそりながら本を読んで、曜日によってはゴミ集めをして、決まった時刻に家を出て、森の中の仕事場(ファミレス)で執筆をします。

同じペースを守って動くのが好きなんです。家内は毎日同じことをするのが嫌いで、新しいことを始めたり、やり方を工夫してドラスティックに変える。でも結城は毎日同じことを同じように進めるのが好きです。

「同じことを同じように進めると飽きてこないの?」と家内はいいますが、飽きませんね。できるだけ同じことを同じように続けようと試みると……

 かえって、微妙な違いに気づく

という経験をします。

たとえば、自分が執筆をしていて、「どうも今日は気持ちがのらないなあ」というときがありますが、そのときに原因を見つけやすい。毎日ほとんど同じことをしているので、昨日や今朝に起きた「特別なこと」を見つけやすいのです。

 「そういえば、昨晩あまり眠れなかったっけ」

そんなことに気づきやすくなるんですね。毎日が対照実験のようです。

毎日ドラスティックに異なることをやっていると、いったい何が原因で何が結果なのかさっぱりわからなくなります。でも、毎日同じようなことをやっていると、微妙な結果を生み出している微妙な原因を見つけることができるようです。

雪国で暮らすある民族は「雪」を表す言葉をたくさん持っているという話を聞いたことがあります。同じような雪でも、毎日ずっと見て毎日そこで暮らしていると、微妙な違いを表す言葉が必要になるのかもしれません。それと少し似ているような。

本を執筆しているとき、毎日ほとんど同じテキストに向かいます。たとえば今日、第三章を書いているとしたら、きっと昨日も第三章を書いていて、明日も第三章を書いているでしょう。同じ時間に同じテキストに向かって書く。そうしていると、文章のトーンの微妙な違いに気づきやすくなるのかも。これは、もっともらしい後付けの理屈ですけれど、真実も一部含まれていそうです。

そこで難しいのは「書き手の視点」と「読み手の視点」の切り替えです。「書き手」としては、いま書いている本に最大の関心がある。毎日同じ気持ちでテキストに向かおうとする。だからこそ、微妙な違いに気づき、トーンを整えることができる。

と、そこまではいいのですが。

では「読み手」はどうでしょうか。読み手は書き手ほどその本に関心はありません。普通の気持ちで本に向かい、普通の気持ちで読み進めたりやめたりする。熱心に読みたくなるときもあれば、眠かったり疲れたりして、すぐにやめたくなるときもある。

熱心な書き手であればあるほど、そういう「普通の読み手」の気持ちを忘れそうになります。

本を書く心がけでも、文章を書く心がけでも、《読者のことを考える》が中心にあります。自分が仕事に向かう熱心さのゆえに、読者のことを置いてけぼりにする可能性があるというのは、なかなか難しいものですね。