妻が私の髪を切ることの象徴的な意味について(結城浩「日常のひとこま」)

おはようございます。結城浩です。

今日も良い日でありますように!

結城は普段、散髪屋さんに行きません。髪が伸びてきたなと思ったら、いつも家内に切ってもらいます。正確には「あなた、髪がぼさぼさよ!」と家内から言われて、私の「そんなに伸びてないよ」という反抗の声は、「伸びてます」という家内の一言の前にかき消える…という状況ですが。

我が家にはビニールのケープが常備されています。私はそれをはおって、バスルームに持ち込んだスツールに座る。家内は家庭で使うためのヘアカット用はさみを使って私の髪の毛をチョキチョキと切るのです。ちなみに、家内は私と子供二人の散髪をしています。

私はその散髪の時間がけっこう好きです。単純に髪を切ってもらうのが気持ちよいのもありますが、ふだん日常に紛れてしまってなかなかとれない夫婦の会話の時間がゆっくり取れるからでもあります。ゆっくりといっても四十分くらいですけれどね。

髪を切りながらですから、夫婦の会話とはいえそんなに深刻な話をするわけではありません。家内は、最近起こったできごとをサマライズしてぽつぽつ話す(最近、洗濯機の調子が悪いのよ)。私は最近書いている本のことや、これからどんな仕事をしたいかを話す(今月に掛けてメルマガ購読者が純増したんだよ)。夫婦でそれぞれに話して、何かの結論が出るわけではないのですが、とても貴重な時間です。

ぼさぼさに伸びた髪の毛を、家内に整えてもらうというのは、実用的な意味(それに散髪代節約という経済的な意味)のほかに象徴的な意味合いがありそうだな、といつも思います。

細かな「でこぼこ」や、ちょっとした「ぎくしゃく」が、整えられ、なめらかになり、落ち着き、settleする。散髪には、そんな感覚があります。

と書きながら考えてみると、家内と散歩したり、夕食の買い物に行ったりするときも、なんやかんや私たちはおしゃべりしていますね。多くの場合は家内が話して、結城が聞き役になっています。でも散髪のときは、どちらかというと結城が話して家内が聞き役になっていることが多いようです(家内は散髪で忙しいから当然ですが)。

自分が話すのを聞いてもらえる心地よさを味わえるというのも結城にとっての家庭散髪の魅力かもしれませんね。

話はそれますが、ある一定の時間「不自由な状態に置かれる」という機会は、うまく使えばとても貴重なものだと思います。たとえば散髪の時間はツイッターもできないし、メールチェックもできない。本も読めないし、原稿も書けない。不自由な状態です。でも、だからこそ、家内と話ができる時間がとれる。

そういえば作家の村上春樹がエッセーのどこかで「家内はぼくに相談があるときには散歩に誘う」と書いていたはずです。さらに、「ぼくは考えごとがあるときには走る」とも書いていました。どのエッセーかは覚えていないのですが。(結城は走りながら考えごとはできないなあ…)

電車で通勤している人の中には、電車の中が貴重な読書の時間になっているという人も多いんじゃないでしょうか。電車の中に一定時間拘束されるという「不自由な状態」がかえって有意義な時間を生み出している例ですよね。

そういう「不自由な状態」が有意義になっている例、あなたは何か経験していますか。むやみに「自由な状態」を求めるよりも、「不自由な状態」を効果的に使う方が良いのかもしれませんね。

結城メルマガVol.025より)